1940年9月27日、ベルリンで調印された日独伊三国同盟。なぜ日本はこの同盟を結び、どのような結果を招いたのか。国際連盟脱退から日独防共協定、独ソ不可侵条約、そして太平洋戦争へと続く激動の時代を、わかりやすく解説します。
この記事のポイント
- 日本、ドイツ、イタリアが国際社会から孤立した背景
- 日独防共協定から三国同盟へ至る経緯と関係者の思惑
- フランス降伏後の「バスに乗り遅れるな」という世論と第二次近衛内閣の成立
- 松岡洋右外相の外交戦略と日独伊ソ四国同盟構想
- 三国同盟が日米関係を決定的に悪化させ太平洋戦争へと導いた過程
なぜ日本・ドイツ・イタリアは手を組んだのか?
日独伊三国同盟を理解するには、まず1930年代の世界情勢から見ていく必要があります。
- 彼らは国際連盟を作り、世界の平和を守ろうとする
- 敗戦国であるドイツは、ヴェルサイユ条約によって厳しい制裁を受けた
- 1933年1月、国民の不満を背景にナチスが政権を握る
- イタリアは戦勝国側でしたが、期待していたほどの領土を得られなかった
日独防共協定から始まった接近!ソ連への警戒が生んだ絆
日本とドイツの接近は、1935年ごろから本格化しました。中心人物の一人が、ドイツ駐在の日本陸軍武官、大島浩です。
- 大島は強硬な親ドイツ派で、ドイツとの軍事同盟こそが日本の安全を守ると確信していた
- 1936年11月25日、日独防共協定が結ばれる
- 日独両国はコミンテルンの活動について情報交換し、必要ならば協力して対応する
- 日本とドイツのどちらかがソ連から攻撃や脅威を受けたとき、もう一方はソ連に味方しないと取り決めていた
フランス降伏と「バスに乗り遅れるな」!第二次近衛内閣の誕生
大戦初期、ドイツ軍は驚異的な強さを見せました。1939年9月、ドイツはおよそ1カ月でポーランドを追い込み、東から侵攻したソ連とともに同国を分割します。
- 同年5月、ドイツ軍はベルギーとオランダに侵入し、フランスへ進撃する
- 1940年6月22日、フランスはドイツに降伏した
- 多くの人々が、ドイツの勝利は決定的だと考えるようになった
- 「今こそドイツと手を結ぶべきだ」「勝ち馬に乗らなければ、日本は取り残される」新聞は「バスに乗り遅れるな」というスローガンを掲げ
ベルリンでの調印と松岡洋右の外交戦略!アメリカを牽制できるのか
第二次近衛内閣の発足により、同盟締結への動きは加速しました。ドイツ側も、日本との同盟に積極的でした。
- ドイツは当時、イギリスとの戦いを続けている
- 1940年9月、ドイツから特使のシュターマーが来日する
- 交渉の中心は、松岡外相、オット駐日ドイツ大使、そしてシュターマーの三人である
- しかし、交渉には難しい問題があった
三国同盟が招いた悲劇!太平洋戦争への道
日独伊三国同盟の締結は、アメリカの態度を軟化させるどころか、逆に硬化させる結果となりました。
- 締結の翌月、1940年10月には日本へのくず鉄輸出を禁止した
- 当時の日本は、石油のほとんどをアメリカからの輸入に依存している
- 1940年11月、ソ連のモロトフ外相は四国同盟に前向きな姿勢を示した
- 1941年6月22日、ドイツは突如としてソ連に侵攻した
流れで見る日独伊三国同盟と近衛文麿・松岡洋右 指導者たちの決断
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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なぜ日本・ドイツ・イタリアは手を組んだのか?
日独伊三国同盟を理解するには、まず1930年代の世界情勢から見ていく必要がある
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日独防共協定から始まった接近!ソ連への警戒が生んだ絆
日本とドイツの接近は、1935年ごろから本格化した
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フランス降伏と「バスに乗り遅れるな」!第二次近衛内閣の誕生
1939年9月、ドイツはおよそ1カ月でポーランドを追い込み、東から侵攻したソ連とともに同国を分割する
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ベルリンでの調印と松岡洋右の外交戦略!アメリカを牽制できるのか
ドイツ側も、日本との同盟に積極的であった
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三国同盟が招いた悲劇!太平洋戦争への道
日独伊三国同盟の締結は、アメリカの態度を軟化させるどころか、逆に硬化させる結果となった