世界最強の大英帝国が、なぜ極東の小国・日本をパートナーに選んだのか。1902年の日英同盟締結に至る外交官たちの奮闘と、ロシアの南下を巡る世界情勢の裏側を徹底解説します。日露戦争の勝利を決定づけた「奇跡の同盟」の真実を知れば、現代の安全保障にも通じる教訓が見えてくるはずです。
この記事のポイント
- 日英同盟締結に至る背景と両国の利害の一致
- 三国干渉の屈辱から日露戦争までの外交戦略
- 英国が「光栄ある孤立」を捨てた理由
- 外交官・小村寿太郎と林董の活躍
- 多国間戦争を防いだ「同盟条約」の仕掛け
屈辱からの再出発
時計の針を少し戻しましょう。1895年、日本は日清戦争に勝利し、清国から遼東半島の割譲を受けました。
- ロシア、ドイツ、フランスの三国が、遼東半島を清に返還するよう日本に勧告していた
- 日本政府は、涙を呑んでこの不条理な要求を受け入れる
- さらに1898年、ロシアは清から旅順・大連の租借権を獲得し、旅順を軍港化していく
- ロシアの南下政策は、満州からさらに朝鮮半島へと、その魔の手を伸ばそうとしていた
斜陽の帝国
20世紀初頭、大英帝国はその繁栄の絶頂期を迎えていました。19世紀末から20世紀初頭にかけて、世界の陸地と人口の約4分の1を占める規模にまで拡大していたのです。
- 1899年に始まったこの戦争は、当初イギリスの圧勝かと思われた
- 現地のボーア人たちの激しいゲリラ抵抗に遭い、予想外の苦戦を強いられる
- このボーア戦争での苦戦によって、イギリスの国力低下が世界に知れ渡ることになった
- 国際世論はボーア側に同情的で、イギリスへの反発も強まった
外交の狐と狸
1901年、ロンドン。駐英公使の林董は、孤独な戦いを続けていました。
- 林は、自らの判断と責任において、イギリス側の反応を探り続けていた
- 老練な外交官であるランズダウンは、林の話に耳を傾けつつも、容易には本音を見せない
- 一つは、イギリスと結んでロシアに対抗しようとする「日英同盟派」
- もう一つは、ロシアと妥協して満州や朝鮮の権益を保全しようとする「日露協商派」
歴史が動いた日
1902年1月30日、ロンドンで林董公使とランズダウン外相が日英同盟協約に署名します。
- 同盟の内容は、日本にとって極めて有利なものであった
- 中国や朝鮮をめぐって日本が一国と戦う場合、同盟国は中立を保つと定められていた
- 日本がロシアと一対一で戦う場合、イギリスは中立を守る
- その結果、フランスが軍事介入に踏み出しにくい状況が生まれる
流れで見る日英同盟はなぜ結ばれた?世界最強国が選んだ驚愕の理由とは
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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屈辱からの再出発
1895年、日本は日清戦争に勝利し、清国から遼東半島の割譲を受けた
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斜陽の帝国
19世紀末から20世紀初頭にかけて、世界の陸地と人口の約4分の1を占める規模にまで拡大していた
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外交の狐と狸
1901年、ロンドン
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歴史が動いた日
1902年1月30日、ロンドンで林董公使とランズダウン外相が日英同盟協約に署名する