幕末から半世紀以上続いた不平等条約に挑み、ついに改正を成し遂げた明治日本。治外法権と関税自主権の問題、ノルマントン号事件の衝撃、陸奥宗光と小村寿太郎の外交手腕まで、日本が独立国家として真の主権を取り戻すまでの壮大な歴史をたどります。
この記事のポイント
- 治外法権と関税自主権喪失という不平等条約の実態
- 幕末に日本が不平等条約を結ばざるを得なかった背景
- ノルマントン号事件が条約改正世論を決定的に高めた経緯
- 陸奥宗光が1894年に治外法権撤廃を成功させた外交戦略
- 小村寿太郎が1911年に関税自主権を完全回復させた過程
不平等条約とは何だったのか?日本を縛った二つの鎖
条約改正の流れをつかむために、不平等条約の中身を押さえておきましょう。明治の日本を苦しめた条約には、大きく二つの問題が立ちはだかります。
- これは、日本にいる外国人が罪を犯しても、日本の法律では裁けないという取り決めであった
- たとえば、日本国内でイギリス人が殺人を犯したとする
- これは、輸入品にかける税率を自国で自由に決める権利を持っていないことを意味する
- 安い外国製品が入ってきたとき、関税で価格を調整して、国内の産業を守る
なぜ日本は不平等条約を結んだのか?幕末の苦悩
なぜ日本は、これほど不利な条約を結んでしまったのでしょうか。時計の針を、1853年へ戻しましょう。
- 1853年6月、アメリカのペリー提督が4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れた
- 翌1854年、ペリーは再び来航し、ここで幕府は日米和親条約を結ぶ
- さらに1858年、大老の井伊直弼が日米修好通商条約を締結する
- 産業革命を経た欧米諸国は、強大な武力を有している
明治政府の挑戦!岩倉使節団と初期の条約改正交渉
1868年、明治維新により新政府が誕生します。政府は「富国強兵」、つまり国を強く豊かにすることを目指し、近代国家への道を歩み始めました。
- 1871年、特命全権大使の岩倉具視が率いる大型使節団が欧米へ派遣された
- 欧米の進んだ文明や制度を学ぶこと、そして条約改正の予備交渉
- 欧米側は、日本に近代的な法律や裁判制度が整っていないことを理由に、話し合いに応じてくれない
- 1889年に大日本帝国憲法を発布し、翌1890年には帝国議会が開設された
ノルマントン号事件の衝撃!国民の怒りが変えた歴史
世論に火をつけたのは、1886年10月24日に起きたある事件です。それが、ノルマントン号事件でした。
- 横浜から神戸へ向かうイギリス貨物船ノルマントン号が、紀州沖、いまの和歌山県沖で暴風雨に遭いる
- 船長は救命ボートを下ろし、船員全員を乗せて脱出した
- この悲報に、国民は激しい怒りを覚える
- 船長はイギリス人のため、裁判はイギリスの領事裁判所で行われた
陸奥宗光の成功!治外法権撤廃への道
事件後、改正を求める声は高まりますが、交渉はなおも難航しました。転機は1892年、第二次伊藤博文内閣が成立し、陸奥宗光が外務大臣に就任したことで訪れます。
- 陸奥宗光は紀州藩出身の外交官で、かつては坂本龍馬の海援隊にも参加していた
- 当時、ロシアはシベリア鉄道の建設を進めて極東へ進出しようとしており、イギリスはこの動きを警戒していた
- 1894年7月16日、ロンドンで歴史的な調印が行われた
- この条約は1899年7月17日に発効することになった
小村寿太郎の偉業!関税自主権の完全回復
治外法権はなくなりましたが、不平等条約の解消は道半ばです。残された課題が、関税自主権の完全回復でした。
- 小村は1855年、宮崎県の飫肥藩に生まれた
- 1901年に外務大臣に就任すると、翌年の日英同盟締結に尽力する
- 1894年に結んだ条約が1911年に期限を迎えるのを見据え、関係各国に条約の終了を通告した
- 交渉は順調に進み、1911年2月21日、新しい日米通商航海条約が調印される
流れで見る条約改正はなぜ半世紀もかかった?明治政府の試行錯誤
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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不平等条約とは何だったのか?日本を縛った二つの鎖
条約改正の流れをつかむために、不平等条約の中身を押さえておきよう
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なぜ日本は不平等条約を結んだのか?幕末の苦悩
時計の針を、1853年へ戻しよう
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明治政府の挑戦!岩倉使節団と初期の条約改正交渉
1868年、明治維新により新政府が誕生する
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ノルマントン号事件の衝撃!国民の怒りが変えた歴史
世論に火をつけたのは、1886年10月24日に起きたある事件である
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陸奥宗光の成功!治外法権撤廃への道
転機は1892年、第二次伊藤博文内閣が成立し、陸奥宗光が外務大臣に就任したことで訪れる