第2次護憲運動を手がかりに、大正デモクラシーが「政党内閣」へ近づいた過程を一気にたどります。元老西園寺公望が清浦内閣を選んだ理由、政友会分裂から政友本党が生まれた事情、憲政会・立憲政友会・革新倶楽部が護憲三派として結集した狙い、1924年総選挙の争点と結果、そして普通選挙法と治安維持法が並走した意味まで整理し、「政党政治を守る」とは何だったのかを、1932年まで続く流れの入口として丁寧に描きます。
この記事のポイント
- 第2次護憲運動とは何か、大正デモクラシーとの関係
- 清浦奎吾内閣誕生がなぜ国民の怒りを招いたのか
- 憲政会、立憲政友会、革新倶楽部が結集した護憲三派の戦い
- 1924年5月の総選挙で護憲三派が圧勝した経緯
- 加藤高明内閣の誕生と普通選挙法成立への道のり
第2次護憲運動とは?大正デモクラシーの頂点
第2次護憲運動は、1924年に大きく盛り上がった日本の政治改革運動です。護憲とは憲法を守るという意味ですが、ここでは憲法に基づいた政党政治を守ることを指していました。
- 大正時代の日本では、民主主義を求める動きが次第に広がっていいた
- こうした中、人々は選挙で選ばれた政党が政治を動かすべきだと考えるようになる
- 1回目の護憲運動は1912年末から1913年にかけて起きている
- 当時の桂太郎内閣に対して尾崎行雄や犬養毅らが中心となり、閥族打破・憲政擁護を叫んだ
なぜ始まった?清浦奎吾内閣誕生と貴族院支配への怒り
1923年11月、皇太子裕仁親王が襲撃される虎ノ門事件が起きました。この事件で政府の警備責任が厳しく問われ、1924年1月7日、山本権兵衛内閣は総辞職します。
- 注目されたのが、衆議院で多数を占めていた立憲政友会であった
- 清浦奎吾は、選挙を勝ち抜いて政党を率いるタイプの政治家ではなかった
- しかしこれは政党の多数派に頼らず、貴族院出身者が中心となった超然内閣であった
- 特に政党関係者や知識人たちは、これを民主主義への挑戦だと受け止めた
護憲三派の結集!政党政治を守る戦い
清浦内閣の誕生に危機感を抱き、憲政会、立憲政友会、革新倶楽部が動き出しました。
- 憲政会は、元外務大臣の加藤高明が率いており、政党政治の確立を目指していた
- 高橋是清を支持するグループと、床次竹二郎を支持するグループに分かれていた
- さらに革新倶楽部は、第1次護憲運動でも活躍した犬養毅が率いる政党である
- こうして1924年1月、3つの政党は協力を固め、護憲三派を結成する
総選挙での大勝利!民意が示した政党内閣への支持
1924年5月10日、護憲三派と清浦内閣支持勢力の行方を決める総選挙が実施されました。
- 彼らは政局の安定を訴えましたが、貴族院内閣を守る立場は、国民の共感を得にくいものとなっていく
- 投票率は9割を超える熱気に達した
- 清浦内閣は6月7日に辞職し、6月11日には加藤高明の護憲三派内閣が誕生する
- 護憲運動に参加した人々は喜びに沸き、これで本当の政党政治が始まると多くの人が信じた
加藤高明内閣の誕生と普通選挙法への道
1924年6月11日、加藤高明を首相とする内閣が誕生しました。護憲三派の3党から閣僚が選ばれた、本格的な政党内閣です。
- これ以降1932年まで政党出身の首相が続くことになり、第2次護憲運動は日本の政党政治を確立させたといえる
- 当時の選挙権には納税額の制限があり、直接国税を年間3円以上納めている25歳以上の男性しか投票できない
- 加藤高明は選挙制度改革を公約に掲げており、護憲三派も納税額による制限を撤廃することで合意している
- 普通選挙法が実現へと向かう中で、同じ年に治安維持法も成立する
流れで見る第2次護憲運動
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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第2次護憲運動とは?大正デモクラシーの頂点
第2次護憲運動は、1924年に大きく盛り上がった日本の政治改革運動である
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なぜ始まった?清浦奎吾内閣誕生と貴族院支配への怒り
1923年11月、皇太子裕仁親王が襲撃される虎ノ門事件が起きた
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護憲三派の結集!政党政治を守る戦い
清浦内閣の誕生に危機感を抱き、憲政会、立憲政友会、革新倶楽部が動き出した
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総選挙での大勝利!民意が示した政党内閣への支持
1924年5月10日、護憲三派と清浦内閣支持勢力の行方を決める総選挙が実施された
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加藤高明内閣の誕生と普通選挙法への道
1924年6月11日、加藤高明を首相とする内閣が誕生した