長州征討を軸に、禁門の変から第一次・第二次征討までの経緯と敗因を整理し、奇兵隊や大村益次郎の近代戦術が幕府の権威失墜と明治維新への転回点となった実像を、史料にもとづいてわかりやすく解説します。
この記事のポイント
- 禁門の変から第一次長州征討に至る経緯と結末
- 高杉晋作の功山寺挙兵と長州藩の軍事改革
- 第二次長州征討での幕府軍の敗北の理由
- 薩長同盟の成立と倒幕への道のり
- 長州征討の失敗が明治維新に与えた決定的影響
禁門の変と第一次長州征討の幕開け
長州征討を理解するには、まずその前に起きた大事件を知る必要があります。それが1864年7月19日に起きた禁門の変、別名「蛤御門の変」です。
- 1853年のペリー来航をきっかけに、日本は開国して外国と関わるのか、それとも攘夷で追い払うのか――その間で揺れ動いていた
- 長州藩の藩主・毛利家には、関ヶ原の戦いで領地を大きく減らされたという不満があった
- 1863年、長州藩は下関海峡を通過する外国船を砲撃した
- 1863年8月18日、「八月十八日の政変」で長州藩は京都から追放され、影響力を一気に失いる
第一次長州征討の展開と意外な結末
1864年11月、征討軍はついに長州藩領に向けて進軍を開始しました。しかし、その進軍は実に奇妙なものでした。
- 総督府も国泰寺に置かれ、各藩の軍勢は国境で進軍を止める
- 徹底抗戦を唱える強硬派と、幕府に従うべきだとする穏健派が対立した
- 彼らは、ここで幕府に屈すれば、長州藩の誇りも攘夷の大義も失われてしまうと考えていた
- 10万の大軍を前にしては、勝ち目などない
高杉晋作の奇兵隊と長州藩の大変革
第一次長州征討後、長州藩内では激しい権力闘争が起きていました。幕府に従った保守派、通称「俗論派」が藩の実権を握ります。
- その中心にいたのが、高杉晋作という人物であった
- 1862年、高杉は上海へ渡る
- 1863年、高杉は奇兵隊を創設した
- 1864年12月15日、高杉晋作は功山寺でわずか80人ほどと決起する
第二次長州征討の激戦と幕府軍の敗北
1865年、幕府は再び長州征討を決定します。この戦いは、長州では「四境戦争」と呼ばれました。
- 幕府内では長州藩の内部変化を深刻に受け止めていた
- しかし、第二次長州征討の準備は困難を極める
- 西郷隆盛と大久保利通は、もはや幕府の時代は終わったと考えていた
- それでも幕府は、1866年6月7日、第二次長州征討を開戦する
長州征討の失敗が導いた明治維新への道
第二次長州征討の失敗は、日本の歴史を大きく変える転換点となります。この敗北により、江戸幕府の崩壊は決定的となり、わずか1年後には大政奉還、そして明治維新へとつながっていきます。
- 260年以上日本を支配した江戸幕府が、たった一つの藩に敗北する
- これまで幕府の顔色をうかがっていた藩も、独自の判断で動くようになった
- 1867年1月30日に孝明天皇が崩御し、2月13日には14歳の明治天皇が即位した
- 薩摩藩の西郷隆盛と大久保利通、木戸孝允
流れで見る長州征討
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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禁門の変と第一次長州征討の幕開け
それが1864年7月19日に起きた禁門の変、別名「蛤御門の変」
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第一次長州征討の展開と意外な結末
1864年11月、征討軍はついに長州藩領に向けて進軍を開始した
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高杉晋作の奇兵隊と長州藩の大変革
第一次長州征討後、長州藩内では激しい権力闘争が起きていた
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第二次長州征討の激戦と幕府軍の敗北
1865年、幕府は再び長州征討を決定する
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長州征討の失敗が導いた明治維新への道
この敗北により、江戸幕府の崩壊は決定的となり、わずか1年後には大政奉還、そして明治維新へとつながっていく