生野の変(生野義挙)を、澤宣嘉や平野国臣の決断、八月十八日の政変の余波、出石藩らの出兵情報など時系列で追い、失敗の要因と学ぶべき教訓を描きます。
この記事のポイント
- 黒船来航から10年後の日本の混乱状況
- 天誅組の変と生野の変の関係
- 澤宣嘉と志士たちの挙兵の経緯
- 農民が支持しなかった理由と時代背景
- 生野の変が明治維新に与えた影響と教訓
黒船来航から10年、日本はどう変わったのか
生野の変を理解するためには、まず当時の日本がどんな状況だったのかを知る必要があります。
- 黒船来航から10年が経った1863年、日本は大きく揺れ動いていた
- 特に1858年に結ばれた日米修好通商条約は、多くの人々の怒りを買った
- 彼らは「このままでは日本は外国に支配されてしまう」という危機感を持ち、「今こそ行動を起こさなければならない」と考えるようになった
- 1862年には、薩摩藩で生麦事件が起きた
天誅組の挙兵と生野への影響
生野の変を語る上で、絶対に外せないのが「天誅組の変」です。実は生野の変は、天誅組の変とほぼ同時期に計画された、連動した挙兵でした。
- 1863年8月、大和国、いまの奈良県にあたる地域で天誅組という尊王攘夷派のグループが挙兵した
- 天誅組の計画は、まず大和国で挙兵し、そこから京都に向かって進軍するというものであった
- 天誅組は8月17日に五條代官所を襲い、『新政府』を名乗った
- 政変により、天誅組が頼りにしていた京都の尊王攘夷派の公家たちが失脚してしまった
澤宣嘉と志士たちの決起
1863年10月、ついに生野の変が始まります。その先頭に立ったのは、若き公家、28歳の澤宣嘉でした。
- 天皇の親戚という高貴な身でありながら、澤宣嘉は自ら危険な挙兵の先頭に立つことを選んだ
- 八月十八日の政変で京都を追われた後、澤宣嘉は但馬国に身を隠していた
- 1863年10月12日未明、澤宣嘉たち志士は、生野代官所を占拠した
- 澤宣嘉たちは、すぐに行動を開始する
農民はなぜ立ち上がらなかったのか
生野の変の失敗は、農民の支持を得られなかったことに大きな要因がありました。
- 江戸時代の農民は、確かに重い年貢に苦しんでいた
- 同時に農民たちは、260年以上続いた江戸幕府の統治に慣れ親しんでいた
- 田畑を耕し、家族を養い、村の中で平穏に暮らすこと
- 「天皇を敬い、外国を打ち払う」という考えは、日々の暮らしに追われる農民たちには、どこか遠い話に聞こえた
生野の変が明治維新に残したもの
1863年10月14日、挙兵からわずか3日目、生野の変は終わりを迎えます。農民が逃亡し、姫路藩、豊岡藩、出石藩などの藩兵に包囲された澤宣嘉たちは、もはや戦うことができませんでした。
- 澤宣嘉は、これ以上の流血を避けるため、やむなく撤退を決意する
- 美玉三平は、播州の木ノ谷のあたりで、農民の手にかかり命を落とした
- 平野国臣は、但馬国から脱出しましたが、1863年11月13日の夜に豊岡藩兵によって捕縛された
- のちに明治維新が成就すると、新政府で参与、九州鎮撫総督などを歴任する
流れで見る生野の変(生野義挙)の真相:澤宣嘉と平野国臣の賭け
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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黒船来航から10年、日本はどう変わったのか
生野の変を理解するためには、まず当時の日本がどんな状況だったのかを知る必要がある
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天誅組の挙兵と生野への影響
生野の変を語る上で、絶対に外せないのが「天誅組の変」である
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澤宣嘉と志士たちの決起
1863年10月、ついに生野の変が始まる
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農民はなぜ立ち上がらなかったのか
生野の変の失敗は、農民の支持を得られなかったことに大きな要因があった
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生野の変が明治維新に残したもの
1863年10月14日、挙兵からわずか3日目、生野の変は終わりを迎える