攘夷実行の勅命が出された文久3年、幕府は5月10日を期限と定めましたが、その裏には驚くべき茶番劇がありました。将軍家茂の仮病や長州藩の孤立など、教科書には載らない幕末の真相をわかりやすく解説します。
この記事のポイント
- 攘夷実行の勅命が出された本当の背景と孝明天皇の苦悩
- 229年ぶりの将軍上洛で家茂が使った「仮病作戦」の真相
- 幕府が使った「政令二途」というダブルスタンダードの実態
- 唯一命令に従った長州藩の孤独な砲撃と下関戦争の悲劇
- 八月十八日の政変で攘夷が終焉し、倒幕へ向かうまでの流れ
孝明天皇の本音と過激派の台頭
まずは、攘夷実行の勅命が出された背景を見ていきましょう。物語の主人公の一人は、31歳の孝明天皇です。
- ペリー来航以降、日本には開国の波が広がっていく
- 安政5年、西暦1858年、幕府は天皇の許可がないまま日米修好通商条約に調印した
- 天皇という立場そのものが揺らぎ、強い危機感を抱いていた様子が史料にも残されている
- 孝明天皇自身も攘夷を強く望み、将軍の徳川家茂に決行を迫った
229年ぶりの将軍上洛と「仮病作戦」
物語のもう一人の主人公は、14代将軍の徳川家茂です。文久3年3月、家茂は京都へ向かい、実に229年ぶりとなる将軍上洛を果たしました。
- 文久2年、徳川家茂は皇女和宮を正室に迎える
- 京都で家茂を待っていたのは、朝廷からの厳しい追及であった
- 追い詰められた家茂は、ついに攘夷の期限を5月10日と約束してしまった
- ここで一つの大きな儀式が控えていた
政令二途という名のダブルスタンダード
京都から脱出した家茂は、江戸へと戻っていきました。しかし、朝廷との約束は残っています。
- 4月下旬、幕府は攘夷の実行期日を「5月10日」として朝廷に約束する
- 幕府から諸大名に出された通達は、朝廷の方針とはまったく異なるものであった
- いわゆる「政令二途」――命令が二筋に分かれたような状態
- アヘン戦争で清がイギリスに敗れたことは、日本中の武士が知っていた
唯一の実行者・長州藩の孤独な砲撃
ついに、その日がやってきました。期日当日、下関で真っ先に砲撃に踏み切ったのが長州藩でした。
- 文久3年5月10日、この日、長州藩は下関で米商船ペンブローク号を砲撃する
- 勅命を実行したのは我々だけだ
- 列強諸国は、日本が戦争を仕掛けてきたと受け止め、報復の準備を秘かに進めていく
- 翌年の元治元年、旧暦8月
八月十八日の政変と攘夷の終焉
長州藩の暴走を見て、孝明天皇はついに決断を下しました。このままでは、過激派に引きずられて日本は破滅する。
- 薩摩藩の島津久光は、以前から急進的な攘夷論と距離を置いている
- 文久3年8月18日未明、京都で政変が起こる
- 政変によって三条実美らは朝廷を追われ、京都を離れて長州へ向かった
- 急進派が力を失うにつれ、武力に頼る攘夷はしだいに影を潜める
流れで見る幕末最大の茶番劇!攘夷実行の勅命が招いた悲劇とは
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
-
孝明天皇の本音と過激派の台頭
物語の主人公の一人は、31歳の孝明天皇
-
229年ぶりの将軍上洛と「仮病作戦」
文久3年3月、家茂は京都へ向かい、実に229年ぶりとなる将軍上洛を果たした
-
政令二途という名のダブルスタンダード
京都から脱出した家茂は、江戸へと戻っていいた
-
唯一の実行者・長州藩の孤独な砲撃
期日当日、下関で真っ先に砲撃に踏み切ったのが長州藩であった
-
八月十八日の政変と攘夷の終焉
長州藩の暴走を見て、孝明天皇はついに決断を下した