教科書だけでは分かりにくい「四国連合艦隊下関砲撃事件」を、なぜ日本を大きく変えることになったのかという視点でざっくり解説します。攘夷思想に燃える長州藩が外国船を砲撃した事件から、世界の強国が結集した四国連合艦隊との戦い、そしてその敗北がもたらした「攘夷から開国」への大転換までを、初心者向けに分かりやすく深掘りします。
この記事のポイント
- 攘夷思想が広まった幕末の日本の状況
- 長州藩による外国船砲撃の経緯と目的
- 圧倒的な軍事力を持つ四国連合艦隊との戦いの全貌
- 事件後の巨額の賠償金問題と幕府の対応
- 敗北を機に長州藩が明治維新の中心となった経緯
なぜ攘夷?幕末の日本と人々の感情
まずは、事件のきっかけとなった当時の日本の状況を見ていきましょう。
- 1853年に、アメリカのペリーが黒船で日本にやってきたことで、日本は鎖国という長い眠りから目を覚まする
- 人々は「日本という国が外国に支配されてしまうのではないか」という漠然とした恐怖を抱き
- 藩主の毛利敬親は攘夷実行に消極的な姿勢も見せましたが、藩政の実務を担う家臣たちの藩論に従い、外国船を砲撃する決断をした
- 1863年5月10日がその実行日と決められ、長州藩はこれを合図に行動を起こした
長州藩、攘夷を決行!若き志士たちの焦り
1863年5月10日。いよいよ長州藩が攘夷を実行に移します。
- その日の朝、関門海峡を通ろうとしたアメリカ商船ペンブローク号に、長州藩の砲台から突然砲弾が撃ち込まれた
- その後も、フランスとオランダの船に対しても砲撃を続け、この作戦は、長州藩を「天皇陛下の命令に従い
- 長州藩は、この時の日本の情勢を完全に読み違えていた
- この砲撃事件は、長州藩を巡る京都での激しい政治的な争いと深く関わっていた
最強の四国連合艦隊、ついに下関へ。その圧倒的戦力差
長州藩による外国船への砲撃事件に対し、すでに報復が行われていましたが、イギリスは、この問題を外交的に解決しようと考えていました。
- 長州藩が交渉に応じない態度をとったことで、ついにイギリスは武力による報復を決意する
- 1864年、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4か国は、連合艦隊を編成した
- 砲台は旧式が中心で、一部に近代砲もありましたが、連合艦隊の最新鋭艦の猛攻の前には、まったく歯が立たなかった
- 1864年9月5日から数日にわたる激しい戦いの末、8日には休戦交渉が始まる
日本の運命を変えた、衝撃の講和と人々の生活
圧倒的な敗北を喫した長州藩は、四国連合艦隊と講和を結ぶしかありませんでした。
- その講和条件は、長州藩にとって非常に厳しいものであった
- これで、関門海峡は外国船がいつでも自由に通行できることになり、長州藩が掲げていた「攘夷」の目的は完全に潰えた
- 四国連合は、長州藩に損害賠償として、なんと300万ドルという巨額の支払いを求めた
- 長州藩には、当然そんな大金を支払う能力はない
攘夷から開国へ。そして明治維新への道
四国連合艦隊下関砲撃事件での壊滅的な敗北は、長州藩にとって大きな転換点となりました。
- この敗北を機に、長州藩は現実的に攘夷を続けることは不可能だと悟り、徐々に開国・近代化へと舵を切り始める
- この方針転換は、長州藩の若きリーダーたち、木戸孝允や、事件直前にロンドンから帰国した伊藤博文や井上馨らによって主導された
- 故郷が破壊されるのを目の当たりにし、彼らは「このままでは日本は外国に植民地化されてしまう」と危機感を強める
- 高杉晋作は、すでに1863年に奇兵隊を立ち上げていましたが、下関の敗北をきっかけに西洋式の訓練を取り入れ、さらに強い部隊へと育てていいた
流れで見る四国艦隊下関砲撃事件
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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なぜ攘夷?幕末の日本と人々の感情
事件のきっかけとなった当時の日本の状況は次の通りである
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長州藩、攘夷を決行!若き志士たちの焦り
1863年5月10日
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最強の四国連合艦隊、ついに下関へ。その圧倒的戦力差
長州藩による外国船への砲撃事件に対し、すでに報復が行われていましたが、イギリスは、この問題を外交的に解決しようと考えていた
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日本の運命を変えた、衝撃の講和と人々の生活
圧倒的な敗北を喫した長州藩は、四国連合艦隊と講和を結ぶしかなかった
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攘夷から開国へ。そして明治維新への道
四国連合艦隊下関砲撃事件での壊滅的な敗北は、長州藩にとって大きな転換点となった