明治改暦で「消えた12月」はなぜ起きたのか。太陰太陽暦からグレゴリオ暦への切替を、国際化の実務と財政難説(大隈重信の回顧)からやさしく解き明かします。
この記事のポイント
- 明治改暦により12月がわずか2日で終わった衝撃の経緯
- 大隈重信が後に語った「改暦の本当の理由」とは
- 福沢諭吉のベストセラー『改暦弁』と「寿命が縮む」と恐れた庶民
- 太陰太陽暦からグレゴリオ暦、不定時法から定時法、そして曜日制の導入
- 急激な改暦で在庫の山を抱えたカレンダー業者の悲劇
突然「消えた12月」明治改暦の衝撃的な幕開け
もしあなたが1872年の日本に生きていたら、年末に信じられない発表を聞いたはずです。
- 1872年の旧暦11月、明治政府は旧暦を廃止し、太陽暦へ切り替えると発表した
- 本来なら12月3日になるはずの日が、新しい暦では1月1日として扱われた
- 年末年始は多くの伝統行事やお祝い事が集中する時期だけに、社会は混乱した
- この暦の変更も、その改革の一つでしたが、国民に知らせる期間はあまりに短いものであった
なぜ日本は暦を変えたのか?国際化と財政を巡る深謀遠慮
明治政府がそこまでして暦を変える必要があったのには、大きく二つの理由があります。
- 当時の日本で使われていたのは、太陰太陽暦
- 明治時代になり欧米諸国との交流が活発になると、この暦が大きな問題となる
- 例えば旧暦の正月は、グレゴリオ暦では1月下旬から2月ごろになる
- 太陰太陽暦では、2〜3年に1度のペースで、うるう月が入ることがあった
激変!旧暦から太陽暦へ、私たちの時間も一新された「新常識」
明治改暦は単に日付が変わるだけでなく、人々の時間に対する考え方や日常の過ごし方までを変えました。
- それまでの「1と6のつく日が休み」という決まりはなくなり、「日曜日は休み」という新しいリズムが始まった
- それまでは、昼と夜をそれぞれ6等分する「不定時法」で時間を数えていた
- 実は江戸時代の日本には、この複雑な時間を刻む「和時計」という超高性能な時計があった
- 定時法は1日を24時間に区切り、1時間の長さを常に一定にする仕組み
大混乱!急すぎる改暦が招いた人々の戸惑いと社会の波紋
明治政府が実行した太陽暦への改暦は、近代国家になるために必要な改革だったといえます。
- 気がついたときには、旧暦の年末はほとんど残されていなかった
- 当時の人々は長年、旧暦で生活していた
- 暦が突然変わる理由がよく分からず、人々の不安が膨らんでいった
- 彼らはこの時すでに、翌年の旧暦のカレンダーを大量に印刷し終えていた
流れで見る太陽暦導入の裏側
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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突然「消えた12月」明治改暦の衝撃的な幕開け
もしあなたが1872年の日本に生きていたら、年末に信じられない発表を聞いたはずだ
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なぜ日本は暦を変えたのか?国際化と財政を巡る深謀遠慮
明治政府がそこまでして暦を変える必要があったのには、大きく二つの理由がある
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激変!旧暦から太陽暦へ、私たちの時間も一新された「新常識」
明治改暦は単に日付が変わるだけでなく、人々の時間に対する考え方や日常の過ごし方までを変えた
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大混乱!急すぎる改暦が招いた人々の戸惑いと社会の波紋
明治政府が実行した太陽暦への改暦は、近代国家になるために必要な改革だったといえる