鳥羽伏見の戦いで圧倒的兵力を誇る旧幕府軍はなぜ敗北したのか。地形が生んだ誤算や錦の御旗による心理的衝撃、そして徳川慶喜の不可解な逃亡劇まで、4日間の戦いの全貌をざっくり解説します。
この記事のポイント
- 15,000人vs5,000人!旧幕府軍が敗北した本当の理由
- 戦況を一変させた「錦の御旗」の心理的威力
- なぜ徳川慶喜は敵前逃亡したのか?その真意と影響
- 西郷隆盛が仕掛けた「戦争への罠」とは?
- 明治維新の分水嶺となった4日間の激闘の全貌
仕組まれた戦争
慶応3年、西暦1867年の暮れ、日本中が固唾をのんで京都の情勢を見守っていました。
- 彼は朝廷を中心とした新しい政治体制の中で、徳川家が主導権を握り続けることを画策していた
- 西郷隆盛は、徳川家を武力で完全に叩き潰さない限り、真の維新は成し遂げられないと考えていた
- 西郷ら討幕派は、関東で幕府側を刺激する挑発行動を重ねていいた
- 江戸の治安を守る庄内藩などがこれを取り締まろうとすると、浪人たちは薩摩藩邸に逃げ込む
運命の開戦と慢心
慶応4年正月3日、1868年1月27日。鳥羽と伏見で、運命の戦いが始まります。
- 彼らの目の前には、薩摩藩の兵士たちが道を塞ぐように陣取っていた
- 旧幕府軍は公称で約1万5千、迎え撃つ新政府軍は約4千〜5千の規模であった
- 旧幕府軍は、古い装備で戦っていたと思われがちである
- 戦場となった鳥羽・伏見の道は非常に狭く、大軍を展開できる場所ではなかった
戦況を一変させた心理兵器「錦の御旗」
翌4日、朝廷は親王を征討大将軍に任じ、錦旗と節刀を与えます。ここで新政府軍は「官軍」となり、旧幕府軍は一気に「賊軍」の立場へ追い込まれました。
- その「官軍のしるし」が戦場に現れた瞬間、空気が変わる
- 新政府軍は、朝廷から授けられた錦旗によって、「官軍」の正統性を一気に前面へ押し出した
- 錦旗は古くから「官軍の旗」として語られてきた存在で、戊辰戦争でも官軍の旗として機能した
- どれほど勇猛な武士であっても、天皇に弓引く「朝敵」になることだけは、どうしても受け入れられない
将軍、脱出
前線での敗報は、次々と大阪城にいる徳川慶喜のもとへ届けられていました。報告を受けた慶喜は諸将を前に、徹底抗戦を促す演説で士気を鼓舞します。
- 「上様がそこまで言うなら、自分たちも命を捨てて戦おう」と、誰もが死力を尽くして戦う決意を新たにした
- なんと、総大将である徳川慶喜が、城からこつ然と姿を消した
- 城に残された多数の将兵たちは、朝になって将軍の不在を知らされ、呆然とした
- 慶喜は、戦わずに従う姿勢を明確にする道を選んだ
流れで見る鳥羽伏見の戦いはなぜ起きた?徳川慶喜が逃亡した真実の理由〜
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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仕組まれた戦争
慶応3年、西暦1867年の暮れ、日本中が固唾をのんで京都の情勢を見守っていた
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運命の開戦と慢心
慶応4年正月3日、1868年1月27日
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戦況を一変させた心理兵器「錦の御旗」
翌4日、朝廷は親王を征討大将軍に任じ、錦旗と節刀を与える
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将軍、脱出
報告を受けた慶喜は諸将を前に、徹底抗戦を促す演説で士気を鼓舞する