1860年、咸臨丸による太平洋横断は、日本人単独の手で成し遂げられた快挙として教科書で語られてきました。しかしその裏側には、英雄・勝海舟が船酔いで寝込んでいたという意外な事実や、荒天時の操船を米海軍士官に大きく依存していたという「不都合な真実」が隠されています。なぜこの航海が成功とされ、日本の近代化の礎となったのか。ジョン万次郎や福沢諭吉の活躍、そして異文化との遭遇など、知られざるエピソードを交えながら、咸臨丸の航海の全貌をざっくり解説します。
この記事のポイント
- 勝海舟は船酔いで機能せず?咸臨丸の真実
- 荒天時の操船は米軍頼みだった証拠
- 木村摂津守の隠れたリーダーシップ
- 福沢諭吉がアメリカで受けた文化衝撃
- 日米共同航海が残した本当の遺産
無謀な挑戦、始まる
まずは、なぜ咸臨丸が太平洋を渡ることになったのか、その背景から見ていきましょう。
- この条約を正式に認め合うための書類を交換するため、日本から正式な使節団をアメリカに送ることが決まる
- そこでは、日本人だけで太平洋を渡るべきだという声が上がっていた
- そこで咸臨丸が随行艦として派遣されることになった
- 全長はおよそ49メートル、排水量は625トン前後といわれ、今の感覚だと外洋に出るには小柄といえる
地獄のアトラクション・太平洋
冬の北太平洋は、世界でも最も荒れることで知られる海域です。咸臨丸の乗組員たちは、その恐ろしさを出航直後から思い知らされることになりました。
- 波は船を木の葉のように翻弄し、甲板には何度も海水が叩きつけた
- この船は帆と蒸気を併用する蒸気帆船であった
- 日本人水夫の多くが船酔いで動けなくなり、甲板作業が回らなくなってしまった
- マストに登って帆を操作するのは、嵐の中では命がけの作業である
アメリカという異世界
サンフランシスコに入港した咸臨丸を、アメリカ側は盛大に歓迎しました。当時の記録によれば、滞在中には公式な歓迎行事も催されています。
- 船を降りた日本人たちは、見るもの聞くもの全てに驚かされた
- 諭吉は後に福翁自伝で、この時の体験を詳しく書き残している
- しかしアメリカ人は土足のまま、高価そうな絨毯の上を平気で歩いていた
- レストランで出された氷水にも仰天させられる
それぞれの土産と、咸臨丸のその後
咸臨丸の乗組員たちは、その後どのような人生を歩んだのでしょうか。彼らがアメリカから持ち帰ったものは、単なる物品だけではありませんでした。
- 福沢諭吉は、購入した辞書と共に、西洋文明への深い理解を持ち帰った
- 慶應義塾を創設し、学問のすすめを著して、日本人の意識改革を訴えた
- ジョン万次郎は、通訳としての功績を認められ、さらに活躍の場を広げた
- 後世の語りでは勝が目立ちますが、航海の指揮を執ったのは木村喜毅であった
流れで見る咸臨丸の太平洋横断
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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無謀な挑戦、始まる
なぜ咸臨丸が太平洋を渡ることになったのか、その背景を確認する
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地獄のアトラクション・太平洋
咸臨丸の乗組員たちは、その恐ろしさを出航直後から思い知らされることになった
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アメリカという異世界
サンフランシスコに入港した咸臨丸を、アメリカ側は盛大に歓迎した
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それぞれの土産と、咸臨丸のその後
彼らがアメリカから持ち帰ったものは、単なる物品だけではなかった