江戸時代の商人・伊能忠敬は、50歳から測量を学び始め、17年かけて日本全国を歩きました。彼が作り上げた『大日本沿海輿地全図』、通称「伊能図」は、現代の地図と比べても誤差がおよそ0.2パーセント程度といわれる驚異の精度を誇ります。なぜこれほど正確な地図を作ることができたのか。その測量方法から完成までの物語を、史実に基づいて解説します。
この記事のポイント
- 江戸時代の地図事情と正確な地図が必要になった背景
- 50歳から測量を学び始めた伊能忠敬の決意
- 17年間で地球1周分を歩いた測量の実態
- 忠敬の死後、弟子たちが地図を完成させた物語
- 伊能図の驚異的な精度とその後の影響
江戸時代の地図事情!なぜ正確な地図が必要だったのか
江戸時代の日本には、いま私たちが使っているような科学的に正確な地図はまだありませんでした。
- その代表が、1605年の『慶長日本図』や、1697年に元禄国絵図をもとに作られた全国図
- たとえば、当時の地図では九州が実際より大きく描かれたり、東北地方の形が歪んでいたりする
- 1792年、ロシアの使節ラクスマンが根室に来航した
- 幕府が全国を効率よく治めるには、各地の正確な位置や距離を知らなければならない
50歳からの挑戦!伊能忠敬が測量を始めた理由
伊能忠敬は1745年、上総国、いまの千葉県にあたる地で生まれました。若いころから商才のあった彼は、下総国佐原にある伊能家へ婿養子に入ります。
- 若いころから学問が好きで、特に天文学に強い関心を寄せていた
- 1795年、忠敬が50歳のとき
- なんと50歳にして、本格的に天文学と測量術を学び始めたのであった
- 観測機器の使い方、三角測量、緯度の計算方法
全国を歩いた17年間!測量の過程と苦労
1800年、伊能忠敬と弟子たち、総勢10名ほどが江戸を出発しました。記念すべき第一次測量の始まりです。
- 測量は、地道な作業の連続である
- 今度は星を観測し、その地点の緯度を計算する
- 第一次測量では、およそ半年かけて蝦夷地の海岸部を測り、1800年10月に江戸へ戻った
- 地図の価値を認めた幕府は、忠敬にさらなる測量を命じる
忠敬の死後に完成した伊能図!弟子たちの奮闘
江戸に戻った伊能忠敬は、地図の作成に没頭しました。膨大なデータを計算し直し、一枚一枚丁寧に描いていく作業は、測量以上に根気のいる仕事です。
- 忠敬は病に倒れ、73歳でこの世を去った
- 師匠の死は、弟子たちにとって大きな衝撃であった
- 景保と弟子たちは、忠敬の死を伏せることにする
- 師匠の残した測量ノートを手がかりに、弟子たちはデータを丁寧に確かめていく
伊能図の驚異の精度!現代に続く影響と評価
伊能図のすごさは、なんといってもその精度にあります。現代の地図と重ねても、海岸線のズレはほとんど確認できません。
- 一つ目は、忠敬の確かな技術
- 「推測で描かない」という信念のもと、すべて自分の足で歩いて測った
- 測量したその日のうちに計算し、誤差があれば翌日測り直す
- しかし幕末の1861年、イギリス海軍が伊能図をもとにした日本地図を出版する
流れで見る伊能忠敬はなぜ歩き続けた?伊能図と4万キロの測量
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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江戸時代の地図事情!なぜ正確な地図が必要だったのか
江戸時代の日本には、いま私たちが使っているような科学的に正確な地図はまだなかった
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50歳からの挑戦!伊能忠敬が測量を始めた理由
伊能忠敬は1745年、上総国、いまの千葉県にあたる地で生まれた
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全国を歩いた17年間!測量の過程と苦労
1800年、伊能忠敬と弟子たち、総勢10名ほどが江戸を出発した
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忠敬の死後に完成した伊能図!弟子たちの奮闘
膨大なデータを計算し直し、一枚一枚丁寧に描いていく作業は、測量以上に根気のいる仕事
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伊能図の驚異の精度!現代に続く影響と評価
現代の地図と重ねても、海岸線のズレはほとんど確認できない