徳川家康はなぜ征夷大将軍になれたのか。関ヶ原の戦いから3年間の権力掌握術、1603年2月12日の就任の瞬間、武家諸法度と参勤交代の仕組み、そして265年続く平和の礎まで、史実にもとづき丁寧に解説します。
この記事のポイント
- 関ヶ原の戦いから征夷大将軍就任までの3年間で家康が行ったこと
- 源氏の血筋を主張することがなぜ重要だったのか
- 1603年2月12日の征夷大将軍就任式の様子
- 武家諸法度と参勤交代による大名統制の巧妙な仕組み
- 江戸幕府成立が日本にもたらした265年の平和とその影響
なぜ家康は征夷大将軍になれた?関ヶ原の戦いから3年の道のり
江戸幕府の成立を理解するには、まず関ヶ原の戦いから話を始める必要があります。1600年9月15日、美濃国の関ヶ原、いまの岐阜県西南部で、日本の行く末を決める戦いが始まります。
- 戦いはわずか6時間ほどで決着した
- 家康は豊臣政権の五大老として政治に関わりながら、表向きには秀頼を支える立場にあった
- というのも、征夷大将軍とは朝廷が選ぶ、武家のトップにあたる官職だからである
- 関ヶ原の戦いの直後から、家康は敗れた西軍の大名たちを処分し始める
豊臣家の臣下から天下人へ!家康の巧みな権力掌握術
関ヶ原の戦いからの3年間、家康は表向きには豊臣家の家臣として振る舞いました。しかし実質的には、日本全国を支配する権力者へと変貌を遂げます。
- 関ヶ原の戦い後、家康は大規模な領地の再配分を行った
- 外様大名は、関ヶ原で徳川側についたものの、もとは他の大名に仕えていた武将たち
- 江戸から京都、大坂へと続く東海道や中山道の要所には、信頼できる譜代が置かれる
- 家康は金山や銀山を直接の支配下に置いた
征夷大将軍就任の瞬間!1603年2月12日に何が起きた?
そしてついに、その日がやってきます。1603年2月12日、徳川家康は征夷大将軍に任命されました。
- 後陽成天皇から、家康に対して将軍宣下が下される
- もともと征夷大将軍は、蝦夷を征伐するための軍事指揮官を指していた
- 征夷大将軍は武家の棟梁、すなわち武士たちの頂点に立つ者を意味するようになった
- 最も重要なのは、家康が朝廷から公式に認められた日本の支配者となった点
江戸幕府の仕組みはこうして作られた!武家諸法度と参勤交代
将軍に就任した家康は、すぐに幕府の基本的な仕組みを作り始めます。しかし、すべてが一度に完成したわけではありません。
- その下の中枢機関は、2代将軍秀忠や3代将軍家光の時代に本格的な整備が進み、評定所、寺社奉行、大目付などが設けられる
- また幕府は、京都所司代、大坂城代、長崎奉行を設置する
- 家康は、大名たちが勝手な行動をとらないよう、様々な規則を作った
- 武家諸法度が最初に制定されたのは、1615年のこと
265年続く平和の礎!江戸幕府成立が日本にもたらしたもの
江戸幕府の成立は、日本の歴史に大きな変化をもたらしました。なかでも重要なのは、長い平和の時代が始まったことです。
- 農業が盛んになった
- 江戸、大坂、京都という三大都市を中心に、活発な商業活動が行われた
- 東海道、中山道、日光街道など、五街道と呼ばれる主要な道路が作られる
- 大名たちが江戸と領地を往復することで、各地の文化が混ざり合った
流れで見る江戸幕府成立
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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なぜ家康は征夷大将軍になれた?関ヶ原の戦いから3年の道のり
1600年9月15日、美濃国の関ヶ原、いまの岐阜県西南部で、日本の行く末を決める戦いが始まる
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豊臣家の臣下から天下人へ!家康の巧みな権力掌握術
関ヶ原の戦いからの3年間、家康は表向きには豊臣家の家臣として振る舞った
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征夷大将軍就任の瞬間!1603年2月12日に何が起きた?
1603年2月12日、徳川家康は征夷大将軍に任命された
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江戸幕府の仕組みはこうして作られた!武家諸法度と参勤交代
将軍に就任した家康は、すぐに幕府の基本的な仕組みを作り始める
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江戸幕府の成立は、日本の歴史に大きな変化をもたらした