教科書だけでは分かりにくい「天保の大飢饉」の世界へようこそ!この動画では、天保4年(1833年)から10年(1839年)にかけて日本全国を襲った未曾有の災害、天保の大飢饉をざっくり解説します。なぜこの飢饉は起こったのか、飢餓に苦しむ人々の悲惨な状況、そして大塩平八郎の乱に代表される社会の混乱を深掘りします。さらに、幕府の天保の改革がなぜ失敗したのか、そしてこの大飢饉が幕末の動乱にどう繋がったのかを分かりやすく解説。
この記事のポイント
- 天保の大飢饉がなぜ発生し、どのような原因があったのか
- 飢饉によって当時の人々が直面した悲惨な生活の実態
- 元奉行所与力・大塩平八郎が起こした乱の背景と結末
- 老中水野忠邦が実施した天保の改革の具体的な内容と失敗の理由
- 天保の大飢饉が江戸幕府の衰退と幕末の雄藩台頭にどう繋がったか
なぜ起こった?天保の大飢饉の始まりと原因
では、この大飢饉は具体的にいつから始まり、何が原因でこれほどの大惨事となったのでしょうか?
- 天保4年(1833年)から天保10年(1839年)にかけて、およそ7年もの長い間続いたこの飢饉
- 特に、東北地方では「やませ」と呼ばれる冷たい風が吹き込み、稲の生育を妨げた
- 当時の社会の状況も、被害を拡大させた大きな要因だったと考えられる
地獄絵図!飢饉がもたらした悲惨な状況
飢饉がもたらした悲惨な状況は、想像を絶するものでした。実際に何が起こったのか、その地獄絵図を詳しく見ていきましょう。
- 飢饉が最も深刻だった天保7年(1836年)頃になると、米の価格は恐ろしいほどに跳ね上がった
- 普段は食べないような、草の根、木の皮、わら、雑草、さらには犬や猫、鳥の肉まで食べる者が現れたと言われる
- 全国の餓死者と疫病による死者は、およそ20万人から30万人にも上ると推定されている
- 米の価格が高騰したことで、日雇いの労働者や貧しい人々は、もはや米を買うことができなかった
立ち上がる人々!大塩平八郎の乱の真相
そんな絶望的な状況の中、一人の人物が立ち上がります。それが、天保8年(1837年)に大坂で起こった「大塩平八郎の乱」です。
- 大塩平八郎という人物は、元々、大坂町奉行所の与力、つまり役人の一人であった
- 飢饉が深刻化し、大坂の町で飢えに苦しむ人々が増える中、大塩は、奉行所や豪商たちが米を囲い込み、江戸に送っていることに強い怒りを覚えた
- 大塩は、自身の俸給や、家財を売却して得たお金を使って、飢えに苦しむ人々を救済しようとしましたが、その活動には限界があった
- 天保8年(1837年)2月19日、大塩は門弟や貧しい人々を引き連れて挙兵した
幕府の挑戦!天保の改革と飢饉対策の光と影
幕府は、この未曾有の危機にどう立ち向かったのでしょうか?時の老中、水野忠邦が推し進めた天保の改革を見ていきましょう。
- 水野忠邦は、幕府の財政を立て直し、社会秩序を回復させることを目指した
- これは、ぜいたくを禁止し、質素倹約を人々に求めるものであった
- これは、都市に流れてきた農民を強制的に農村に帰らせることで、荒廃した農村を立て直し、年貢収入を確保しようとした政策
江戸の終焉へ?大飢饉が幕末に与えた影響
では、この大飢饉は、その後の江戸時代にどのような影響を与えたのでしょうか?特に、幕末へと続く大きな変化に焦点を当てます。
- 未曾有の大飢饉に対し、幕府は効果的な対策を打ち出すことができず、多くの民衆が苦しんだ
- この権威の失墜は、その後の幕末の動乱期に、幕府がリーダーシップを発揮できなくなる遠因となる
- 幕府が財政難と飢饉対策に苦しむ中、一部の有力な藩、いわゆる「雄藩」は、独自の改革を断行し、財力を蓄えていいた
- これらの雄藩は、幕府の天保の改革が失敗に終わる中で、独自の経済政策を成功させ、財政的基盤を強化した
流れで見る天保の大飢饉
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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なぜ起こった?天保の大飢饉の始まりと原因
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地獄絵図!飢饉がもたらした悲惨な状況
実際に何が起こったのか、その地獄絵図を詳しく見ていく
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立ち上がる人々!大塩平八郎の乱の真相
それが、天保8年(1837年)に大坂で起こった「大塩平八郎の乱」
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幕府の挑戦!天保の改革と飢饉対策の光と影
幕府は、この未曾有の危機にどう立ち向かったのだろうか?時の老中、水野忠邦が推し進めた天保の改革は次の通りである
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江戸の終焉へ?大飢饉が幕末に与えた影響
特に、幕末へと続く大きな変化に焦点を当てる