1958年、東京の空に333メートルの赤い塔が誕生しました。エッフェル塔を超え、自立式鉄塔として世界一となった東京タワー。その建設の裏には、戦車の鉄を利用した事実や、命がけで挑んだ鳶職人たちのドラマがありました。戦後復興のシンボルが完成するまでの奇跡の物語を解説します。
この記事のポイント
- 東京タワー建設の背景と、なぜ333メートルが必要だったのか
- 「塔博士」内藤多仲による設計と、地震・台風への対策
- 材料不足を補うために使われた「米軍戦車のスクラップ」の真実
- 命知らずの鳶職人たちが披露したリベット打ち「死のキャッチボール」
- わずか1年半で完成させた当時の日本の技術力と熱狂
なぜ東京に巨大な塔が必要だったのか?
物語の舞台となるのは、1950年代半ばの東京です。日本は戦後の焼け野原から立ち直り、高度経済成長期へと突入しようとしていました。
- テレビ局が次々と開局し、東京の街中には、多くの電波塔が立ち並ぶようになっていく
- 局ごとに設備が分かれていたため、受信環境に課題が出てきた
- 彼は、各局のアンテナを一本にまとめた巨大な総合電波塔を作ればいいのではないか、と考える
- どうせ作るなら世界一の塔にして、日本の復興を世界に示すべきだと考えた
設計の鬼・内藤多仲と「戦車の鉄」の秘密
設計を引き受けた内藤多仲の前に、自然の脅威が立ちはだかります。日本は地震大国であり、毎年強力な台風も襲来します。
- そこで内藤は、毎日のように計算に向き合った
- 東京タワーは、強風や大地震に耐える前提で設計されている
- 内藤が導き出した答えが、末広がりの曲線を描く、この独特な構造であった
- 建設にはもう一つ、深刻な問題があった
決死の空中戦!今ほど安全帯が整っていない時代
1957年6月、いよいよ建設工事が始まりました。施工は竹中工務店が担当しましたが、現場で鉄骨を組み上げたのは、全国から集められた鳶職人たちです。
- 今のように安全帯や手すりが当たり前ではない時代であった
- 鉄骨同士をつなぐリベットを真っ赤になるまで炉で熱し、柔らかくしてから打ち込んで固定していいた
- 足場に置かれた炉で真っ赤に熱したリベットを、職人が鉄の箸で掴み、空中へと投げ渡する
- 真っ赤な部材を空中で受け渡すこの作業は、のちに「死のキャッチボール」とも呼ばれた
1958年、ついに完成!世界一の高さへ
1958年10月ごろ、最後の難関であるアンテナ設置工事が行われました。塔の最上部での作業は困難を極めましたが、職人たちはこれも見事にやり遂げます。
- そして12月23日、東京タワーはついに完工式を迎える
- 開業直後から展望台は大人気で、1959年には年間およそ520万人が訪れた記録も残っている
- エッフェル塔を超えたという事実は、当時の日本人に大きな自信を与えた
- 現在のライトアップが始まったのは、のちの1989年から
戦後復興のシンボルが日本人に与えた希望
東京タワーの完成は、日本の高度経済成長の幕開けを象徴する出来事でした。その後、日本は新幹線の開通、東京オリンピックの開催と、怒涛の勢いで発展していきます。
- 映画『ALWAYS 三丁目の夕日』で描かれたように、建設中の東京タワーは、当時の人々にとって「上を向いて歩く」ための道しるべとなっていた
- 時は流れ、2012年には東京スカイツリーが完成し、電波塔としての主役の座を譲ることになった
- 設計者の執念や職人たちの心意気、復興を夢見た人々の思いが、あの赤い鉄骨の一本一本に刻まれている
- 333メートルの高さには、復興を願った人々の思いが、今も静かに息づいている
流れで見る東京タワー完成
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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なぜ東京に巨大な塔が必要だったのか?
物語の舞台となるのは、1950年代半ばの東京である
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設計の鬼・内藤多仲と「戦車の鉄」の秘密
設計を引き受けた内藤多仲の前に、自然の脅威が立ちはだかる
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決死の空中戦!今ほど安全帯が整っていない時代
1957年6月、いよいよ建設工事が始まった
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1958年、ついに完成!世界一の高さへ
1958年10月ごろ、最後の難関であるアンテナ設置工事が行われた
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戦後復興のシンボルが日本人に与えた希望
東京タワーの完成は、日本の高度経済成長の幕開けを象徴する出来事であった