日ソ共同宣言は、なぜ北方領土問題を残したまま国交回復に踏み切ったのか。鳩山一郎の訪ソ外交、シベリア抑留、国連加盟の条件を史料にもとづき整理し、1956年の決断の全体像をわかりやすく解説します。
この記事のポイント
- 戦後11年間、日ソが国交を持たなかった理由と背景
- 60万人のシベリア抑留と帰還交渉の実態
- 北方領土問題がどのように生まれ、交渉の壁となったか
- 73歳の鳩山首相が命がけで挑んだモスクワ訪問の真実
- 日ソ共同宣言で何が決まり何が残されたのか
- 現在まで続く北方領土問題の経緯と日露関係
なぜ11年も断絶していたのか?戦後の日ソ関係
1945年8月15日、日本は第二次世界大戦に敗れました。しかし、この戦争の終結は、日本とソヴィエト社会主義共和国連邦、通称ソ連との新たな対立の始まりでもあったのです。
- 1945年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄する
- 中立条約を破って参戦し、戦争が終わった後も領土を占領する
- 満州や樺太にいた日本軍将兵や民間人およそ60万人が、ソ連によってシベリアに連行された
- 1951年9月、サンフランシスコ平和条約が調印された
60万人のシベリア抑留!引き揚げ交渉の苦悩
1945年8月、満州や樺太にいた日本軍将兵と民間人は、突然の悪夢に襲われます。
- 冬の気温はマイナス40度を下回ることもある
- 日本に残された家族たちの苦しみも深刻であった
- 抑留者の本格的な帰国は、1946年12月の米ソ協定後に始まった
- 日本政府にとって、抑留者の帰還は最優先の課題である
北方領土問題の始まり!交渉の最大の壁
日ソ交渉において、最大の障害となったのが北方領土問題です。この問題は、今も日本とロシアの関係に影を落とし続けています。
- 北方領土とは、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の四つの島々を指する
- 1855年、日本とロシアは日露和親条約を結ぶ
- 1875年には、樺太千島交換条約が結ばれた
- こうして、北方四島が日本の領土であることは、長い歴史の中で確立されていく
鳩山首相モスクワへ!命がけの訪ソ外交
1956年10月、日本の政治史に残る大きな出来事が起こります。鳩山一郎首相がモスクワを訪問したのです。
- この時、鳩山首相は73歳
- 鳩山首相は1956年10月13日から19日まで、モスクワで交渉に臨んだ
- 翌14日から、本格的な交渉が始まった
- 領土問題について、双方の主張は平行線をたどった
日ソ共同宣言の調印!何が決まり何が残されたのか
1956年10月19日に調印された日ソ共同宣言は、全10項目から成る文書です。
- 第1項で戦争状態の終了、第2項で外交関係回復が明記されている
- 第5項では、有罪判決を受けたすべての日本人が釈放され、日本に帰還させられることが定められている
- 「日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する
- 第一に、領土問題は完全には解決されていないこと
国連加盟と未解決の領土問題!その後の日ソ・日露関係
日ソ共同宣言から、すでに60年以上が経過しました。その間、日ソ関係、そして冷戦終結後の日露関係は、どのように変化してきたのでしょうか。
- 1956年の共同宣言後、日本とソ連の間には経済協力が始まり、貿易も徐々に拡大する
- 1960年代に入ると、ソ連は態度を硬化させる
- 1973年、田中角栄首相がモスクワを訪問した
- 1980年代、ゴルバチョフ書記長のもとで、ソ連の外交政策に変化が生まれる
流れで見る日ソ共同宣言と北方領土
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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なぜ11年も断絶していたのか?戦後の日ソ関係
1945年8月15日、日本は第二次世界大戦に敗れた
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60万人のシベリア抑留!引き揚げ交渉の苦悩
1945年8月、満州や樺太にいた日本軍将兵と民間人は、突然の悪夢に襲われる
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北方領土問題の始まり!交渉の最大の壁
日ソ交渉において、最大の障害となったのが北方領土問題である
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鳩山首相モスクワへ!命がけの訪ソ外交
1956年10月、日本の政治史に残る大きな出来事が起こる
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日ソ共同宣言の調印!何が決まり何が残されたのか
1956年10月19日に調印された日ソ共同宣言は、全10項目から成る文書