国連加盟を目指した戦後日本は、主権回復後の1952年に申請するもソ連の拒否権で阻まれます。鳩山一郎のモスクワ交渉と日ソ共同宣言を経て、1956年12月18日の加盟承認へ至る道筋を追います。
この記事のポイント
- 国際連合の仕組みと安保理常任理事国の拒否権の重要性
- 1952年の主権回復とサンフランシスコ講和条約の意義
- ソ連による拒否権行使と、冷戦下で日本の国連加盟が阻まれた経緯
- 鳩山一郎首相による日ソ国交正常化交渉の詳細と、モスクワでの粘り強い外交
- 1956年12月18日の国連加盟実現と、その後の日本の国連外交
国際連合とは何か?戦後日本が目指した国際社会への復帰
まず、国際連合とはどのような組織なのかを見ていきましょう。国際連合は、国連という略称で知られる国際的な組織です。
- 中心となるのは、アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国の5つの常任理事国
- 1945年9月2日、降伏文書への調印で戦争は終わった
- およそ7年の占領を経て、日本は国際社会への復帰を目指する
サンフランシスコ講和条約で主権回復、しかし残った課題
1951年9月8日、アメリカのサンフランシスコで講和会議が開かれます。52か国の代表が集まり、日本との条約について話し合いました。
- 会議の最終日、日本を含む49か国が署名した
- 中華民国と中華人民共和国の、どちらを正統な政府と認めるかで、各国の意見が分かれていたためである
- このサンフランシスコ平和条約は、翌1952年4月28日に発効した
- 主権を取り戻した日本にとって、次の目標ははっきりしていた
1952年、国連加盟申請とソ連の拒否権という壁
主権回復から間もない1952年6月、日本はさっそく加盟を申請しました。しかし当時、世界は冷戦のまっただ中にあります。
- 結果は、賛成10、反対1
- ソ連は「時期尚早だ」と主張し、強く拒む
- 外務省は、アジアやアフリカの国々へ働きかけ、支持を広げようとした
鳩山一郎とモスクワ交渉!日ソ国交正常化への険しい道
1954年12月、鳩山一郎内閣が発足しました。鳩山首相は、日ソ国交正常化を最重要課題に掲げます。
- 翌年から交渉が始まりますが、道のりは険しいものであった
- 行き詰まった1956年、ソ連は強硬手段に出る
- 側近の河野一郎農林大臣をモスクワへ送り、交渉を続けさせた
- 交渉が始まったのは、10月13日
1956年12月18日、ついに実現した悲願の国連加盟
宣言から2か月後の1956年12月12日。国連安保理で、再び日本の加盟が審議されます。
- ニューヨークの国連本部で開かれた総会で、日本の加盟が承認される
- 重光は演説で、国連の目的を尊重し、世界の平和に力を尽くすと誓いる
- 鳩山のあとを継いだ石橋湛山政権、さらにその後の政権も、国連中心主義を外交の柱とした
- 2000年には分担率が20パーセントを超え、アメリカに次ぐ規模となる
流れで見る国連加盟を阻んだ拒否権とは?冷戦下の安保理を読み解く
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
-
国際連合とは何か?戦後日本が目指した国際社会への復帰
国際連合は、国連という略称で知られる国際的な組織
-
サンフランシスコ講和条約で主権回復、しかし残った課題
1951年9月8日、アメリカのサンフランシスコで講和会議が開かれる
-
1952年、国連加盟申請とソ連の拒否権という壁
主権回復から間もない1952年6月、日本はさっそく加盟を申請した
-
鳩山一郎とモスクワ交渉!日ソ国交正常化への険しい道
1954年12月、鳩山一郎内閣が発足した
-
1956年12月18日、ついに実現した悲願の国連加盟
宣言から2か月後の1956年12月12日