明治六年政変は、西郷隆盛と大久保利通が朝鮮政策をめぐって対立し、政府が二分された1873年の政局です。岩倉使節団の帰国と三条実美の裁可留保までを追い、征韓論/遣韓論の真意とその後の影響を整理します。
この記事のポイント
- 明治政府と朝鮮の国交問題がこじれた経緯
- 岩倉使節団の外遊中に留守政府で起きた権力変動
- 西郷隆盛の主張は征韓論ではなく遣韓論だった可能性
- 大久保利通らが内治優先を主張した理由と財政事情
- 政変後の自由民権運動や不平士族の反乱への影響
なぜ朝鮮問題が浮上した?明治政府と朝鮮の溝
明治六年政変を読み解くには、まず日本と朝鮮の関係に目を向ける必要があります。物語は1868年、明治維新の直後から始まります。
- 新政府は、対馬藩による仲介を排し、政府間の直接交渉へ切り替えを図る
- そこで明治政府は、王政復古と新しい国の成立を伝え、国交を結ぶために朝鮮へ使節を送った
- 文面の書き方が、これまでの江戸時代の形式とまったく違っていた
- 新しい国書には「皇」や「勅」といった、天皇の立場を強調する表現が使われていた
岩倉使節団の外遊!留守政府で何が起きていたか
1871年11月、岩倉使節団は横浜港から出航します。使節団の目的は、大きく二つありました。
- もう一つは、欧米の先進国を視察し、日本の近代化の参考にすることであった
- 使節団には、岩倉具視を筆頭に、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文など、明治政府の中枢を担う人物たちが参加する
- 「留守中は新規の大改革など、重大案件は決めない」という趣旨の約束
- 1873年に入ると、状況は一変し始める
西郷隆盛の真意!征韓論か遣韓論か
明治六年政変――。この出来事の中心には、「征韓論」と呼ばれる一つの議論がありました。
- 近年の研究ではこの見方に疑問が投げかけられている
- 武力ではなく外交で、朝鮮との関係を開こうとした
- 西郷は、板垣退助のような即座の軍事行動には反対の立場であった
大久保利通vs西郷隆盛!政府を二分した大激論
1873年7月、大久保利通が一足早く帰国し、続いて木戸孝允も日本へ戻ります。二人が耳にしたのは、留守政府が西郷の朝鮮派遣をすでに決めていたという知らせでした。
- 帰国した大久保、木戸、岩倉の三人が掲げたのは「内治優先」の方針であった
- 大久保たちは、欧米諸国を視察し、その圧倒的な力の差を実感していた
- 当時の日本政府には、戦争をするだけの財源がない
- 1873年9月、岩倉具視が帰国する
政変がもたらした衝撃!その後の日本はどうなったか
明治六年政変は、日本の歴史に大きな影響を与えました。その波は、政治、社会、そして人々の運命にまで及んだのです。
- 西郷隆盛ら5人の参議が去ったことで、大久保を中心とする政権が確立した
- 新政権は内治を最優先とし、殖産興業や制度整備を一気に進めていく
- 大久保は、産業と教育、そして地方制度の近代化を推し進め、日本の基盤を築いていく
- 政府を去った人々は、それぞれの道を歩むことになった
流れで見る明治六年政変
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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なぜ朝鮮問題が浮上した?明治政府と朝鮮の溝
物語は1868年、明治維新の直後から始まる
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岩倉使節団の外遊!留守政府で何が起きていたか
1871年11月、岩倉使節団は横浜港から出航する
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西郷隆盛の真意!征韓論か遣韓論か
この出来事の中心には、「征韓論」と呼ばれる一つの議論があった
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大久保利通vs西郷隆盛!政府を二分した大激論
1873年7月、大久保利通が一足早く帰国し、続いて木戸孝允も日本へ戻る
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政変がもたらした衝撃!その後の日本はどうなったか
明治六年政変は、日本の歴史に大きな影響を与えた