四民平等を掲げ、法治国家の土台をわずか数年で作り上げた異才・江藤新平。そんな彼が故郷の佐賀で士族反乱の首魁となった裏には、大久保利通による冷徹な政治的罠と、西郷隆盛による非情な拒絶がありました。アームストロング砲と電信網がぶつかり合った戦況、そして「写真」に刻まれた無惨な最期。司法が死んだ日を徹底解説します。
この記事のポイント
- 「法の神」江藤新平がなぜ処刑されたのか
- 近代化の象徴「写真」が残酷な見せしめに使われた理由
- 佐賀の乱の勝敗を分けた「アームストロング砲」と「電信網」
- 西郷隆盛と板垣退助はなぜ江藤を見捨てたのか
- 明治政府の闇と大久保利通の冷徹な政治判断
晒された生首の写真
江藤新平の「生首写真」が広く世に出回った背景には、実はある皮肉な事実が隠されています。
- 当時の人々にとって何よりも衝撃的だったのは、その光景が「写真」に撮られたこと、これに尽く
- そう告げるかのような、強烈な見せしめとなる
- 江藤が司法卿を務めていた頃、人相書による追跡制度が整えられた
- 法治国家を目指して制度を作った男が、法の外へと追い出された
あまりに優秀すぎた男・江藤新平
江藤新平は、1834年に佐賀藩士の家に生まれました。極貧の中で育ちながらも、若い頃から並外れた頭脳で周囲を圧倒していました。
- 明治維新後、新政府に出仕した江藤は、その驚異的な事務処理能力と構想力で、またたく間に頭角を現する
- 江藤は身分によらず、平等に裁かれる制度づくりを急いだ
- 具体的には、フランスの法律について、多少の誤訳は気にせず、急いで導入するよう部下に命じた
- その急進的で、正論を貫こうとする姿勢が、政府内で多くの反発を招いた
火薬庫・佐賀への帰還
1874年1月のことです。東京での言論活動に行き詰まりを感じ始めていた江藤は、故郷である佐賀への帰郷を決意します。
- 当時の佐賀では、士族たちが「征韓党」や「憂国党」といった集まりを作り、新政府への不満を募らせていた
- 憂国党の中核を担っていたのが、江藤の先輩にあたり、札幌の街づくりにも関わった島義勇
- もし蜂起すれば、大久保らに反対派一掃の口実を与えてしまうと考えていたからである
- 大久保利通は、その動きを見透かすかのように、すでに冷徹な手を打っていた
アームストロング砲 vs 電信網
開戦当初、佐賀軍の士気は高く、装備も充実していました。佐賀藩は幕末以来、日本でも有数の技術力を持ち、それを実戦で使える水準まで高めていたのです。
- 幕末の佐賀藩が、アームストロング砲のような最新火砲を取り入れていたこと自体は知られている
- 徴兵制が始まったばかりで、新兵を含む部隊が、経験不足のまま実戦に臨んでいた
- 佐賀軍は猛攻を仕掛け、瞬く間に佐賀県庁を占拠し、政府側の守備隊を壊滅させる
- 彼の手には、アームストロング砲をしのぐ、近代戦争を変える二つの武器があった
絶望の逃避行と西郷の拒絶
敗軍の将となった江藤新平は、九州山地を越えて鹿児島を目指します。そして3月1日、その道中の鰻温泉で、西郷隆盛と会談しました。
- 江藤は、今こそ立ち上がるべきだと強く訴え、西郷に協力を求めた
- しかし、西郷の答えは冷淡であった
- 西郷にすれば、十分な準備が整わない状態で起きた佐賀の乱に加担することは、犬死にを意味するとわかっていたのだろう
- かつての盟友である西郷に頼れない現実に、深い落胆を覚える
暗黒裁判と司法の死
佐賀の臨時法廷で、審理は急速に進められました。その進め方は、後に厳しい批判を受けることになります。
- かつて江藤の部下であり、司法のあり方を学んだ、弟子ともいえる存在
- 河野は、大久保の意向に従い、師である江藤をためらいなく裁いた
- 正当性を主張しようとしますが、発言はことごとく封じられる
- そして1874年4月13日、江藤に判決が下される
流れで見る佐賀の乱の真相とは?江藤新平が処刑された本当の理由
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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晒された生首の写真
江藤新平の「生首写真」が広く世に出回った背景には、実はある皮肉な事実が隠されている
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あまりに優秀すぎた男・江藤新平
江藤新平は、1834年に佐賀藩士の家に生まれた
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火薬庫・佐賀への帰還
1874年1月
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アームストロング砲 vs 電信網
佐賀藩は幕末以来、日本でも有数の技術力を持ち、それを実戦で使える水準まで高めていた
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絶望の逃避行と西郷の拒絶
そして3月1日、その道中の鰻温泉で、西郷隆盛と会談した