大同団結運動は明治時代、条約改正問題を機にバラバラだった政治勢力が団結を試みた運動です。1887年5月の大阪有志懇親会、同年10月の東京での三大事件建白申し合わせ、12月の保安条例、1889年の二派分裂、そして1890年の総選挙と開院時の勢力形成までを一気にたどります。 後藤象二郎の構想、三大事件建白、保安条例による弾圧、そして運動の挫折までを詳しく解説します。
この記事のポイント
- 自由民権運動衰退後の明治政治の状況
- 1887年9月に井上馨が辞任した背景
- 後藤象二郎の大同団結構想と三大事件建白の内容
- 保安条例による570名の追放という政府の司法手続きなしの弾圧
- 1889年5月の二派分裂と第一回帝国議会選挙への影響
自由民権運動の挫折と新たな潮流の誕生
大同団結運動を理解するには、その前に起きた自由民権運動を見ておく必要があります。
- 政治は薩摩藩や長州藩の出身者が独占しており、これは「薩長藩閥政府」と呼ばれていた
- もともとは政府の中枢にいた彼らでしたが、政治の進め方をめぐって対立し、ついには政府を離れて民間の立場へと回っていった
- 1874年、板垣退助らは民撰議院設立建白書を提出した
- 政府は「国会開設の詔」を出し、9年後の1890年に国会を開くと約束した
井上馨の条約改正案が引き起こした大反発
1885年、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任し、近代的な内閣制度が始まります。
- 井上の条約改正交渉は、1886年から本格化する
- 外国人が日本の「内地」、つまりこれまでの居留地の外でも、自由に住んだり商売したりできるようにしようとした
- 1883年に完成した鹿鳴館という洋風の社交場で、連日舞踏会を開いた
- こうした井上の方針は、多くの国民から激しい批判を浴びることになった
後藤象二郎の大胆な構想!バラバラの勢力を一つに
後藤象二郎は、土佐出身の政治家です。板垣退助とは若い頃からの盟友で、頭の回転が速く、大胆な発想をする人物として知られていました。
- 1887年、後藤象二郎は呼びかけた
- 政治グループ同士が、細かな違いで争っていても意味がない
- 自由民権運動が低迷する中で、新しい活路を見出したい人たちがたくさんった
- 1887年5月、後藤は全国の政治結社に呼びかけ、大阪で全国有志懇親会を開き、団結の機運を高める
三大事件建白運動と政府の容赦なき弾圧
保安条例による弾圧を受けても、大同団結運動の勢いはすぐには止まりませんでした。
- 1888年、新しい動きが起こる
- それは、当時の最高裁にあたる「大審院」に外国人裁判官を任用するというも
- 中でも特に強硬だったのが、「対外硬派」と呼ばれる人々
- 1889年、世間を震撼させる事件が起きた
大同団結運動の終焉!統一の夢はなぜ潰えたか
大同団結運動は、なぜ失敗したのでしょうか。その理由を考えることは、日本の政党政治の難しさを理解する上で重要となります。
- 大同団結運動は、「政府に反対する」という一点でまとまってはいましたが、その先――どんな政治をつくりたいのかという具体的な姿が
- 第二の理由は、リーダーシップの欠如と、各グループの利害の違いであった
- 旧自由党系は、地主や豊かな農民を支えとし、地租の軽減を求めていた
- 保安条例による弾圧は、確かに強引な手段であった
流れで見る大同団結運動
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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自由民権運動の挫折と新たな潮流の誕生
大同団結運動を理解するには、その前に起きた自由民権運動を見ておく必要がある
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井上馨の条約改正案が引き起こした大反発
1885年、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任し、近代的な内閣制度が始まる
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後藤象二郎の大胆な構想!バラバラの勢力を一つに
板垣退助とは若い頃からの盟友で、頭の回転が速く、大胆な発想をする人物として知られていた
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三大事件建白運動と政府の容赦なき弾圧
保安条例による弾圧を受けても、大同団結運動の勢いはすぐには止まらなかった
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大同団結運動の終焉!統一の夢はなぜ潰えたか
その理由を考えることは、日本の政党政治の難しさを理解する上で重要となる