建武の新政の背景と崩壊を、天皇親政の構想、公家と武士の摩擦、二条河原の落書が映す世相から俯瞰。南北朝時代への転換点としての意味と、その後の日本史に残した影響までをコンパクトに示します。
この記事のポイント
- 後醍醐天皇の執念と鎌倉幕府滅亡の経緯
- 建武の新政で目指した天皇親政の理想
- 恩賞問題と公家優遇による武士の不満
- 足利尊氏の離反と南北朝時代の始まり
- わずか3年で崩壊した建武の新政が歴史に残した影響
鎌倉幕府の滅亡!後醍醐天皇の倒幕への執念
建武の新政を理解するためには、まず鎌倉幕府がどのように滅亡したのかを知る必要があります。
- 後醍醐天皇は1288年に生を受け、31歳で天皇の位につく
- 最初の倒幕計画は1324年の正中の変と呼ばれる事件
- 1331年、再び計画を立てる
- 離島に流され、もう政治の中心に戻ることはできない
ついに実現した天皇親政!建武の新政の始まり
1333年、鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇はすぐに京都に戻り、新しい政治を始めます。
- 天皇親政とは、天皇自らが直接政治を行うこと
- 「建武の新政」と呼ばれる新たな体制のもとで、訴訟や恩賞、治安を担当する機関が整えられる
- 楠木正成や新田義貞、足利尊氏といった有力武将も政治に参加することになった
- 後醍醐天皇の理想は高く、様々な改革を次々と打ち出する
理想と現実のギャップ!建武の新政の政策と問題点
建武の新政が始まってまもなく、後醍醐天皇の理想と現実との間に、大きなギャップがあることが明らかになります。
- 楠木正成、新田義貞、足利尊氏といった大きな功績を挙げた武将から、小さな武士まで、皆が恩賞を期待していた
- 倒幕にほとんど貢献していない公家たちが、良い土地や高い地位を得ることが多くあった
- 例えば、ある武士は鎌倉攻めで大きな功績を挙げたのに、もらえた恩賞は小さな土地だけ
- 経済の混乱を抑えるために、1334年には建武徳政令が出された
武士の不満が爆発!足利尊氏の離反
建武の新政に対する不満が高まる中、ついに大きな転機が訪れます。それは、足利尊氏の離反でした。
- 元々は幕府側の武将でしたが、後醍醐天皇側に寝返り、六波羅探題を攻め滅ぼした
- 武士たちの不満を直接聞く立場にいた尊氏は、このままでは武士の支持を失ってしまうと考える
- 1335年、関東で再び火の手が上がる
- この反乱を鎮圧するため、足利尊氏は関東に向かう
わずか3年で崩壊!建武の新政が残したもの
1333年に始まった建武の新政は、わずか3年後の1336年には事実上崩壊しました。
- 建武の新政が続かなかったのは、時代に合わない理想や、武士たちの不満、そして混乱した政治が原因であった
- 歴史的に見ると、建武の新政には重要な意味があった
- 鎌倉時代には形だけの存在だった天皇が、建武の新政でその力を示した
- 建武の新政では実を結ばなかったものの、この理念は室町時代に受け継がれ、朝廷と幕府の関係、そして公家と武士の文化的な交流へとつながっていいた
流れで見る建武の新政
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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鎌倉幕府の滅亡!後醍醐天皇の倒幕への執念
建武の新政を理解するためには、まず鎌倉幕府がどのように滅亡したのかを知る必要がある
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ついに実現した天皇親政!建武の新政の始まり
1333年、鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇はすぐに京都に戻り、新しい政治を始める
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理想と現実のギャップ!建武の新政の政策と問題点
建武の新政が始まってまもなく、後醍醐天皇の理想と現実との間に、大きなギャップがあることが明らかになる
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武士の不満が爆発!足利尊氏の離反
建武の新政に対する不満が高まる中、ついに大きな転機が訪れる
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わずか3年で崩壊!建武の新政が残したもの
1333年に始まった建武の新政は、わずか3年後の1336年には事実上崩壊した