教科書だけでは分かりにくい「南北朝の動乱」の世界へようこそ!この動画では、西暦1336年から1392年まで約56年間続いた、日本史上前例のない二つの朝廷の並立と対立をざっくり解説します。後醍醐天皇の理想、足利尊氏の野望、そして楠木正成らの忠義が織りなす壮大な歴史ドラマを分かりやすく深掘りします。
この記事のポイント
- 鎌倉幕府崩壊と建武の新政がなぜ失敗したのか
- 後醍醐天皇はなぜ吉野へ逃れ南朝を開いたのか
- 楠木正成、新田義貞ら南朝の忠臣たちの活躍と最期
- 観応の擾乱で北朝内部はどう分裂したのか
- 明徳の和約による南北朝合一の真相
なぜ朝廷が二つに分かれたのか?鎌倉幕府滅亡と建武の新政の失敗
南北朝の動乱を理解するには、まず鎌倉幕府の末期まで遡る必要があります。西暦1185年、源頼朝によって始まった鎌倉幕府は、約150年にわたり日本を統治しました。
- 西暦1274年と1281年の二度にわたる襲来は防いだものの、幕府は莫大な軍事費を使い、財政は破綻寸前
- 恩賞をもらえない武士たちの不満は高まり、幕府への信頼は地に落つ
- こうした状況の中、一人の天皇が立ち上がる
- 後醍醐天皇は西暦1288年に生まれ、1318年に31歳で即位
後醍醐天皇と足利尊氏の対立:吉野に逃れた南朝の誕生
建武の新政が行き詰まる中、最初に反旗を翻したのは、鎌倉幕府打倒の立役者の一人、足利尊氏でした。
- 尊氏と後醍醐天皇の対立のきっかけが、西暦1335年の中先代の乱
- 独自に恩賞を与え始め、事実上、東国の支配者として振る舞った
- 西暦1335年12月、箱根・竹ノ下の戦いで尊氏軍は新田軍を撃破
- 九州で体制を立て直した尊氏は、西暦1336年4月、大軍を率いて再び東へ
楠木正成・新田義貞・北畠親房:南朝を支えた忠臣たち
南北朝の動乱を語る上で欠かせないのが、後醍醐天皇に最後まで忠義を尽くした武将たちの存在です。
- 正成の出自については謎が多く、河内国の土豪だったという説が有力だが、詳しいことは分かっていない
- 西暦1331年、後醍醐天皇の呼びかけに応じ、正成は河内の赤坂城で挙兵
- 西暦1333年、幕府軍は数万の大軍で千早城を包囲しますが、彼はわずか千人ほどの兵で長期間持ちこたえた
- 建武の新政では、河内守などの官職に就いたとされ、朝廷からの信頼も厚い人物であった
観応の擾乱:北朝内部の分裂と足利直義・足利直冬の反乱
南北朝の対立が続く中、北朝の内部でも深刻な対立が生じました。これが「観応の擾乱」と呼ばれる内紛で、西暦1350年から1352年にかけて起こります。
- 観応の擾乱の中心人物は、足利尊氏とその弟・直義、そして尊氏の執事・高師直
- 足利直義は尊氏の実の弟で、西暦1306年の生まれ
- 高師直は足利家の執事で、尊氏の側近中の側近であった
- 直義は法に基づく統治を、師直は武士の実力主義を重視した
南北朝の合一:明徳の和約がもたらした時代の終わり
観応の擾乱が終結した後も、南北朝の対立は続きました。しかし、時代が下るにつれ、戦いは次第に北朝・室町幕府の優位で進んでいきます。
- 足利義詮の後を継いだ三代将軍・足利義満の時代になると、室町幕府の力はさらに強大となった
- 南朝の勢力は次第に衰え、有力な武将たちはすでに戦死しており、支配地域も吉野周辺に限られるようになる
- 楠木正成の子、楠木正儀
- 西暦1383年、長慶天皇から後亀山天皇へと皇位が継承される
流れで見る南北朝の動乱
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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なぜ朝廷が二つに分かれたのか?鎌倉幕府滅亡と建武の新政の失敗
西暦1185年、源頼朝によって始まった鎌倉幕府は、約150年にわたり日本を統治した
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後醍醐天皇と足利尊氏の対立:吉野に逃れた南朝の誕生
建武の新政が行き詰まる中、最初に反旗を翻したのは、鎌倉幕府打倒の立役者の一人、足利尊氏であった
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楠木正成・新田義貞・北畠親房:南朝を支えた忠臣たち
南北朝の動乱を語る上で欠かせないのが、後醍醐天皇に最後まで忠義を尽くした武将たちの存在
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観応の擾乱:北朝内部の分裂と足利直義・足利直冬の反乱
これが「観応の擾乱」と呼ばれる内紛で、西暦1350年から1352年にかけて起こる
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南北朝の合一:明徳の和約がもたらした時代の終わり
観応の擾乱が終結した後も、南北朝の対立は続いた