中先代の乱は、建武の新政への不満と北条時行の挙兵が重なって生まれた短期決戦でした。武士たちがなぜ少年を担ぎ鎌倉を奪い、足利尊氏と護良親王の運命をも左右したのか、その背景と戦いの流れを丁寧にたどります。
この記事のポイント
- 鎌倉幕府滅亡時の北条時行の脱出劇
- 建武の新政への武士たちの不満
- 中先代の乱の詳細な戦闘経過
- 護良親王が殺害された理由
- 北条時行が南朝に帰順して生涯戦い続けた理由
鎌倉幕府滅亡と少年の逃亡
1333年5月、鎌倉は炎に包まれていました。新田義貞の大軍が迫り、150年続いた幕府は最期の時を迎えます。
- 東勝寺には第14代執権・北条高時をはじめ、一族と家臣が集結していた
- このとき、一人の少年が炎の都から脱出した
- 彼は北条氏得宗家の直属である御内人と呼ばれる家臣であった
- そこには、北条氏への深い忠誠心があった
建武の新政への不満と挙兵の背景
1335年6月、京都で一つの陰謀が発覚しました。公卿の西園寺公宗が、後醍醐天皇の暗殺を企てたのです。
- 彼は北条氏の残党と通じ、天皇を倒して世の中を変えようと画策する
- 公宗は捕らえられ、8月には処刑された
- 京都で公宗が襲撃し、同時に東国の時行たちが立ち上がる
- しかし公宗の逮捕で、計画は危機に瀕した
中先代の乱 破竹の進撃と鎌倉奪還
1335年7月下旬、時行軍は武蔵国へ入りました。ここから鎌倉まで、怒涛の進撃が始まります。
- 7月20日ごろ、戦いの火ぶたは女影ヶ原で切られた
- 渋川は一族でも屈指の武勇を誇る武将であった
- この勝利で、時行軍の士気はいっそう高まる
- 次の戦場となったのは、小手指ヶ原
足利尊氏の反撃と護良親王の悲劇
足利尊氏は弟・直義の敗報を聞き、即座に行動しました。彼は後醍醐天皇に対し、時行討伐の許可とともに、征夷大将軍の地位と強い権限を求めたとされます。
- 征夷大将軍は、武家の棟梁を示す重要な役職である
- かつては、この時点で尊氏が独立政権の樹立を狙っていたと考えられていた
- 幼いながらも鎌倉を奪還し、幕府再興の大義を掲げる時行
- すると尊氏は、もう待てないとばかりに「征東将軍」を自称し、東国へ進んでいく
南朝に帰順 生涯を貫いた戦い
鎌倉から再び逃れた北条時行。しかし、その戦意が消えることはありませんでした。
- 1336年、足利尊氏と後醍醐天皇の決裂により、天皇は吉野へ逃れて南朝を開く
- 父を死に追いやった仇、後醍醐天皇の南朝に帰順した
- 理由はただ一つ
- 時行にとって尊氏は、父の仇であり最大の敵であった
流れで見る中先代の乱と北条時行 二十日間の奇跡
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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鎌倉幕府滅亡と少年の逃亡
新田義貞の大軍が迫り、150年続いた幕府は最期の時を迎える
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建武の新政への不満と挙兵の背景
1335年6月、京都で一つの陰謀が発覚した
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中先代の乱 破竹の進撃と鎌倉奪還
1335年7月下旬、時行軍は武蔵国へ入った
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足利尊氏の反撃と護良親王の悲劇
彼は後醍醐天皇に対し、時行討伐の許可とともに、征夷大将軍の地位と強い権限を求めたとされる
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南朝に帰順 生涯を貫いた戦い
しかし、その戦意が消えることはなかった