教科書だけでは分かりにくい「東京裁判」の世界へようこそ!この動画では、第二次世界大戦後に行われた極東国際軍事裁判について、戦犯の分類、28人の被告たち、2年半に及ぶ裁判の経過、そして歴史的な判決まで、ざっくり解説します。勝者の裁きか正義の実現か、今も議論が続くこの裁判の真実に迫ります。
この記事のポイント
- 戦後の日本占領と戦争責任追及の背景
- A級B級C級戦犯の意味と裁判の仕組み
- 東条英機ら28人の被告たちの運命
- 検察と弁護が繰り広げた2年半の法廷闘争
- 7人の死刑判決とパール判事の反対意見
戦争が終わったその後に 連合国が日本に求めた責任
1945年8月15日、昭和天皇の玉音放送によって、日本はポツダム宣言を受け入れ、国民に降伏することを伝えたのです。
- 連合国、すなわちアメリカ、イギリス、ソ連、中国といった戦勝国は、日本に対して戦争責任を追及する方針を固めていた
- 連合国が戦争犯罪者を裁くという考えは、戦争が終わる前から準備が進められていた
- 1945年8月30日、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立ち、日本の占領が始まる
- 1945年9月11日、GHQが東条の逮捕に踏み込み、東条は同日自殺を図りましたが、一命を取り留める
法廷の仕組みと戦犯の分類 A級・B級・C級とは何か
東京裁判を理解するためには、まず戦犯の分類について知る必要があります。よく「A級戦犯」という言葉を聞きますが、これは何を意味するのでしょうか。
- 英語ではCategory A、B、Cと表現され、あくまで分類記号に過ぎない
- 侵略戦争の計画や準備、開始、実行などに関わった罪で、政治家や軍の最高指導者たちが、主にこの罪に問われた
- これは戦時国際法への違反行為を指し、捕虜の虐待や民間人への暴行、略奪などを含むも
- 戦前または戦時中に行われた、非人道的な行為を指する
28人の被告たち 東条英機をはじめとする指導者の運命
東京裁判の被告席に座った28人は、まさに戦時中の日本の中枢を担った人々です。彼らはどのような人物で、なぜ選ばれたのでしょうか。
- 東条は1941年10月~1944年7月まで首相を務め、真珠湾攻撃を決定した際の最高責任者
- 文官として唯一死刑判決を受けた広田弘毅
- 陸軍の代表的な人物としては、板垣征四郎と土肥原賢二がいた
- 思想家の大川周明は、裁判の冒頭で奇行を繰り返したため精神鑑定が行われ、訴訟能力がないと判断されて裁判から外れる
2年半に及ぶ裁判の攻防 検察vs弁護の主張
1946年5月3日に開廷した東京裁判は、2年半以上にわたる長い法廷闘争となりました。
- 検察側の基本的な主張は、日本が1928年~1945年にかけて、アジア太平洋地域を支配するための侵略戦争を計画的に行った、というもの
- その主張の柱は、日本の戦争は自衛のためだったというものであった
- また弁護側は、事後法で裁くことの妥当性や、判事が戦勝国のみで構成されている公平性の問題を指摘した
- 彼は1947年の末に証言台に立ち、日本の戦争はあくまで自衛のためであり、天皇に戦争責任はない、と繰り返し主張した
判決と処刑 そして東京裁判が残したもの
1948年11月4日から判決の朗読が始まり、11月12日に個人別の宣告が行われました。
- 7人の死刑判決は世界に衝撃をもたらし、しかもこの裁判には上訴の機会すらなかった
- 1952年のサンフランシスコ講和条約が発効した後、国際的な手続きにのっとって減刑や仮釈放が進み
- その判決に至るまでの過程で、11人の判事の意見は決して一枚岩ではなかった
- 戦争指導者の個人責任を問うという、国際法における新しい概念を確立したといえる
流れで見る東京裁判
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
-
戦争が終わったその後に 連合国が日本に求めた責任
1945年8月15日、昭和天皇の玉音放送によって、日本はポツダム宣言を受け入れ、国民に降伏することを伝えた
-
法廷の仕組みと戦犯の分類 A級・B級・C級とは何か
東京裁判を理解するためには、まず戦犯の分類について知る必要がある
-
28人の被告たち 東条英機をはじめとする指導者の運命
東京裁判の被告席に座った28人は、まさに戦時中の日本の中枢を担った人々である
-
2年半に及ぶ裁判の攻防 検察vs弁護の主張
1946年5月3日に開廷した東京裁判は、2年半以上にわたる長い法廷闘争となった
-
判決と処刑 そして東京裁判が残したもの
1948年11月4日から判決の朗読が始まり、11月12日に個人別の宣告が行われた