明治維新直後、岩倉具視ら政府首脳陣が1年10ヶ月もの間、日本を留守にした岩倉使節団。条約改正の失敗から欧米列強の衝撃、ビスマルクの演説まで、日本の近代化を決定づけた旅の全貌を解説します。
この記事のポイント
- 明治政府のトップが長期間日本を離れた異例の背景とリスク
- 不平等条約の改正と欧米視察という二つの大きな目的
- アメリカでの交渉失敗と外交知識の欠如による挫折
- 「鉄の宰相」ビスマルクの演説が日本に与えた現実的な教訓
- 津田梅子ら留学生の派遣と帰国後の日本の急速な近代化
前代未聞のプロジェクト!政府の中枢が日本からいなくなる
1871年12月23日、横浜港は異様な熱気に包まれていました。アメリカ号に乗り込もうとしていたのは、100人を超える大集団です。
- 団長は、特命全権大使の岩倉具視
- 見送りには多くの群衆が集まり、祝砲も鳴り響き、国を挙げた一大イベントとなる
- そんな出発の場面で、一つ印象的なエピソードがある
- 異国の空気に触れ、まずは見た目から変わろうとしたのかもしれない
なぜ彼らは旅立ったのか?背負わされた二つの重大な使命
ではなぜ、そこまでして海外へ行く必要があったのでしょうか。実はそこに、二つの大きな目的がありました。
- 一つ目は、不平等条約の改正に向けた予備交渉である
- 日本国内で外国人が罪を犯しても日本の法律で裁けず、その国の領事が裁判を行う仕組みであった
- 輸入品に対し、日本が自由に関税をかける権利を持っていなかった
- 新政府にとって、不平等条約の改正は大きな目標であった
アメリカでの大失敗!外交の基本を知らなかった日本人たち
横浜を出ておよそ3週間。1872年1月、一行はサンフランシスコへ上陸し、盛大なパレードで迎えられます。
- 旅路では、前年に大火に見舞われたシカゴの街並みも目にする
- この歓迎ムードを見て、一行の中に「予備交渉ではなく、一気に本格交渉へ踏み込もう」という声が上がる
- こうしてワシントンで本格的な交渉が始まる
- 全権委任状とは、条約を正式に結ぶ権限を証明する書類である
ヨーロッパでの衝撃!鉄の宰相ビスマルクが教えた世界の現実
1872年の夏、使節団はイギリスに到着しました。当時のイギリスは、産業革命を成し遂げ、世界の中心に立っていた国です。
- 街中を走る鉄道に地下鉄、立ち並ぶ巨大な工場、そして港を埋め尽くす蒸気船
- 単に法律や制度を整えるだけではいけない
- その後、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシアと、彼らはヨーロッパ各国を巡った
- 1873年3月中旬、ベルリンでの宴席で、彼は国際政治の厳しさを説いた
海を渡った小さな少女たち!津田梅子と女子留学生の挑戦
岩倉使節団の物語で忘れてはならないのが、彼らと一緒に海を渡った留学生たちです。
- その一人、津田梅子は当時わずか6歳であった
- 彼女たちの使命は、アメリカの家庭に入り、西洋の女性の生き方や教育を学ぶことであった
- それでも梅子はアメリカの家庭で愛情を受けて育ち、英語を身につけ、自立した女性としての考え方を学んだ
- 梅子は日本の古い習慣と、アメリカで学んだ価値観のギャップに苦しむ
帰国と激動!見たことのない新しい日本を作るために
1873年、使節団はヨーロッパからアジアを経由し、9月13日に横浜へ戻ってきます。
- 頭の中には、ロンドンの地下鉄やベルリンの重厚な街並み、そしてビスマルクの言葉が焼き付いていたからである
- しかし帰国した彼らを待っていたのは、のんびりとした土産話の時間ではない
- 彼らがいない間に、留守を預かっていた西郷隆盛や板垣退助らの間では、朝鮮に対して武力で開国を迫る「征韓論」が高まっていた
- 今の日本には外国と戦争をしている余裕などない
流れで見る岩倉使節団
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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前代未聞のプロジェクト!政府の中枢が日本からいなくなる
1871年12月23日、横浜港は異様な熱気に包まれていた
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なぜ彼らは旅立ったのか?背負わされた二つの重大な使命
実はそこに、二つの大きな目的があった
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アメリカでの大失敗!外交の基本を知らなかった日本人たち
1872年1月、一行はサンフランシスコへ上陸し、盛大なパレードで迎えられる
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ヨーロッパでの衝撃!鉄の宰相ビスマルクが教えた世界の現実
1872年の夏、使節団はイギリスに到着した
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海を渡った小さな少女たち!津田梅子と女子留学生の挑戦
岩倉使節団の物語で忘れてはならないのが、彼らと一緒に海を渡った留学生たち