1885年12月22日、太政官制度に代わり内閣制度が創設されました。初代内閣総理大臣の伊藤博文は、ヨーロッパで学んだ知識を活かし、近代国家にふさわしい政府の仕組みを作り上げます。この改革が日本の政治をどう変えたのか、その歴史をわかりやすく解説します。
この記事のポイント
- 内閣制度とは何か、なぜ必要だったのか
- 太政官制度の問題点と限界
- 伊藤博文が欧州で学んだドイツ・オーストリアの政治制度
- 1885年12月22日の内閣制度創設の経緯と第1次伊藤内閣の発足
- 薩長藩閥を中心とした初代内閣の顔ぶれと主な政策
- 内閣制度が日本の近代化と議会政治に与えた影響
内閣制度とは何か?なぜ必要だったのか
内閣制度という言葉は、今では当たり前のように使われていますが、日本に誕生したのは1885年のことでした。
- 内閣制度とは、内閣総理大臣をトップに据え、各省の大臣たちが集まって国の政治を行う仕組み
- 1880年代、日本は大きな曲がり角にいた
- 1881年、政府は10年後の1890年に議会を開くと公約した
- 当時の日本は、幕末に結ばされた不平等条約に頭を悩ませていた
太政官制度の問題点と限界
内閣制度が誕生する前、日本の政治を担っていたのは太政官制度です。これは明治維新の直後、1868年に設けられたものでした。
- 太政官制度には太政大臣というトップがいて、その下に左大臣、右大臣、そして参議という役職が置かれている
- 一見、整った仕組みに見えますが、実は大きな問題を抱えていた
- 太政官制度では、複数の役職が重なり合いながら政治が行われていた
- 参議は、各省の仕事まで兼ねていた
伊藤博文の欧州視察とドイツの影響
太政官制度に限界を感じた伊藤博文は、1882年3月、憲法を学ぶためにヨーロッパへ旅立ちました。
- 伊藤の目的は、日本に適した憲法のモデルを探すことだ
- ここで伊藤は法学者グナイストに師事し、プロイセンの仕組みを研究した
- ここで伊藤は、君主制国家における立憲政治と行政の仕組みを学んだ
- 当時のイギリスやフランスは、議会の力がとても強い国であった
内閣制度創設の舞台裏と第1次伊藤内閣の発足
帰国した伊藤は、さっそく内閣制度の創設へ向けて動き出します。しかし、改革は簡単には進みません。
- 対して伊藤は、農民の家に生まれ、のちに武士の家に養子として迎えられ、政界へと上がった人物であった
- 内閣づくりは容易ではなく、宮中と政府の間で様々な思惑が交差した
- それでも伊藤は着々と準備を進め、1885年12月22日、ついにその日が訪れる
- 三条実美は明治天皇に対し、政府の仕組みを変える必要性を説いた
第1次伊藤内閣の顔ぶれと取り組み
では、初代内閣の顔ぶれを見ていきます。内閣総理大臣には、伊藤博文が就任しました。
- 外務大臣は、伊藤の盟友である長州出身の井上馨である
- 陸軍大臣には大山巌、海軍大臣には西郷従道が就き、いずれも薩摩の出身であった
- 司法大臣には山田顕義、文部大臣には森有礼が就いた
- この布陣を見ると、長州と薩摩の出身者が4人ずつであることがわかる
内閣制度が日本に与えた影響
内閣制度の創設は、日本の政治にどのような変化をもたらしたのでしょうか。
- 総理大臣が各大臣をまとめ、各大臣は自分の担当する省を統括する
- 総理と各大臣による閣議で方針を決め、それを実行に移する
- 1890年、予定通り第1回帝国議会が開かれる
- 大日本帝国憲法では、内閣や総理大臣についての規定が十分とは言えなかった
流れで見る内閣制度創設
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
-
内閣制度とは何か?なぜ必要だったのか
内閣制度という言葉は、今では当たり前のように使われていますが、日本に誕生したのは1885年のことであった
-
太政官制度の問題点と限界
これは明治維新の直後、1868年に設けられたものであった
-
伊藤博文の欧州視察とドイツの影響
太政官制度に限界を感じた伊藤博文は、1882年3月、憲法を学ぶためにヨーロッパへ旅立った
-
内閣制度創設の舞台裏と第1次伊藤内閣の発足
帰国した伊藤は、さっそく内閣制度の創設へ向けて動き出する
-
第1次伊藤内閣の顔ぶれと取り組み
内閣総理大臣には、伊藤博文が就任した