1930年、日本は「金解禁」に踏み切りました。世界恐慌の直撃を受け、都市では失業者があふれ、農村では娘の身売りが社会問題化します。なぜ日本は最悪のタイミングで経済を引き締める政策を選んだのか。浜口雄幸と井上準之助という二人の政治家の信念と、その歴史的誤算を解説します。
この記事のポイント
- 金解禁とは何か、なぜ必要だったのか
- 浜口雄幸と井上準之助の信念と決断
- 世界恐慌と金解禁が重なった最悪のタイミング
- 昭和恐慌で農村と都市に何が起きたか
- 高橋財政による経済復活と、その後の日本
世界から取り残された日本
まずは、なぜ「金解禁」が必要だったのか、その背景を見ていきましょう。話は第一次世界大戦までさかのぼります。
- 第一次世界大戦中、世界各国は金の流出を防ぐため、金貨や金地金の輸出を禁止した
- 日本も1917年、大正6年に金の輸出を禁止する
- 英国は1925年に金本位制へ復帰し、米国も戦時中の金輸出規制を段階的に緩和していいた
- 1920年には戦後恐慌、1923年には関東大震災、1927年には金融恐慌と、次々と経済危機に見舞われたからである
「命がけ」の男たちの登場
1929年7月、一人の男が内閣総理大臣に就任しました。立憲民政党の総裁、浜口雄幸です。
- ライオンのような風貌に加え、料亭政治を嫌い、根回しを避ける剛直な姿勢が、その異名につながった
- 浜口は幼いころから温厚で真面目な性格で、休み時間も本を手放さない努力家だったという
- 浜口内閣の最大の課題は二つあった
- 井上は元日本銀行総裁であり、財政の専門家として知られていた
嵐の中への船出
井上準之助は金解禁の準備を着々と進めていきました。まずはデフレ政策、つまり物価を下げる政策を実行します。
- 当時の日本経済は、戦争景気と戦後の混乱で、水ぶくれ状態にあった
- この言葉はラジオを通じて国民に届けられ、当時最新のメディアを使った演説は、広い支持を集める
- 旧平価というのは、金本位制の時代に定められていた円の基準
- 円安の「新平価」で解禁すれば、輸出には有利であった
地獄の昭和恐慌
金解禁と同時に、嵐が日本経済を直撃しました。世界恐慌の波と、井上のデフレ政策が重なり、日本は未曾有の不況に突入します。
- 当時の日本の主力輸出品は生糸であった
- 生糸に頼っていた農村では、一夜にして収入が途絶え、借金を返せなくなる家が続出した
- 記録では、白米1升が20銭を下回った地域もある
- 農村では、借金の代わりに娘を奉公に出す家が増えていいた
凶弾に倒れた理想と転換
1930年11月14日、東京駅のホームで事件は起きました。浜口雄幸首相が、右翼青年に銃撃されたのです。
- 療養を続けながら政務への復帰を目指したものの、体力は戻らない
- ロンドン海軍軍縮条約への調印も、軍部や右翼の反感を買っていた
- 1932年2月、井上準之助は「血盟団事件」と呼ばれる一連の暗殺の中で命を落とする
- 浜口と井上が命をかけて進めた金解禁
流れで見る昭和恐慌を招いた「金解禁」の真実
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
-
世界から取り残された日本
なぜ「金解禁」が必要だったのか、その背景は次の通りである
-
「命がけ」の男たちの登場
1929年7月、一人の男が内閣総理大臣に就任した
-
嵐の中への船出
はデフレ政策、つまり物価を下げる政策を実行する
-
地獄の昭和恐慌
世界恐慌の波と、井上のデフレ政策が重なり、日本は未曾有の不況に突入する
-
凶弾に倒れた理想と転換
1930年11月14日、東京駅のホームで事件は起きた