永禄12年、1万もの三好軍が将軍・足利義昭を襲った「本圀寺の変」を解説します。圧倒的不利な状況で明智光秀ら守備隊がどう戦い、歴史を変えるに至ったのか、その全貌に迫ります。
この記事のポイント
- 永禄の変から足利義昭の将軍就任までの室町幕府の混乱
- 三好三人衆や斎藤龍興らが織田信長不在の隙を狙って京都奪還を企てた経緯
- 1万規模対手薄な守備隊という圧倒的不利な状況での本圀寺攻防戦
- 明智光秀の奮戦と援軍到着による形勢逆転の詳細
- 本圀寺の変をきっかけに信長が二条城を築いた理由と明智光秀の出世
室町幕府の混乱と足利義昭の上洛
まずは、本圀寺の変が起きた背景を見ていきましょう。室町幕府は戦国時代に入ると将軍の力が弱まり、実権を失っていきました。
- 1565年、13代将軍の足利義輝が京都で襲撃され、命を落とする
- 三好三人衆とは、三好長逸、岩成友通、そして三好宗渭の3人を指する
- 弟の足利義昭は、奈良の興福寺一乗院に身を置き、事件の後はしばらく監視下に置かれていた
- 1568年9月、信長は義昭を奉じて京都へ向かう
三好三人衆の逆襲計画
阿波に逃れた三好三人衆ですが、京都奪還を諦めてはいませんでした。彼らはじっと反撃の機会を狙っていたのです。
- 1568年10月下旬、信長はいったん岐阜へ戻る
- 将軍を討ち取り、再び京都を支配できる好機であった
- 襲撃側には三好三人衆に加えて、斎藤龍興らも合流した
- 本圀寺の門前が焼き払われ、いきなり緊張が走る
本圀寺を襲う約1万の軍勢
1569年1月下旬、まず本圀寺の周辺が焼かれ、翌日には三好勢が洛中に踏み込み、本圀寺を攻めました。
- 本圀寺へ向かって進軍してくるその数は、8000から1万ともいわれる大軍であった
- 極めて不利な状況で、本圀寺内の武士たちは覚悟を決めた
- 『信長公記』を見てみると、この戦いは、明智光秀の名が「明智十兵衛」として明確に登場する、かなり早い段階の出来事
- 光秀たちは本圀寺の中で必死に防ぎ、押し返した
明智光秀たちの奮戦と援軍の到着
戦いは日付をまたいで続きました。守備隊は何とか持ちこたえていましたが、このままでは時間の問題です。
- 正月六日、信長のもとに将軍襲撃の急報が届いた
- 細川藤孝、三好義継、池田勝正、荒木村重ら
- 数で劣っていた守備隊に次々と味方が加わった
- 不利を悟った三好三人衆は、退却を始める
事件が変えた京都の守り 二条城の誕生
本圀寺の変は終わりましたが、この事件は重要な教訓を残しました。本圀寺は仮の御所として不十分だったのです。
- 信長は将軍の御所にはきちんとした防御機能が必要だと痛感する
- 正月十四日、織田信長は足利義昭に『殿中御掟』を示し、幕府運営の基本ルールを整える
- この事件のあと、足利義昭の居場所は本圀寺から二条へ移った
- 堀や石垣を備えたその構造は、当時としては堅固な防御機能を目指したものであった
流れで見る本圀寺の変
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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室町幕府の混乱と足利義昭の上洛
室町幕府は戦国時代に入ると将軍の力が弱まり、実権を失っていいた
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三好三人衆の逆襲計画
阿波に逃れた三好三人衆だが、京都奪還を諦めてはいなかった
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本圀寺を襲う約1万の軍勢
1569年1月下旬、まず本圀寺の周辺が焼かれ、翌日には三好勢が洛中に踏み込み、本圀寺を攻めた
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明智光秀たちの奮戦と援軍の到着
守備隊は何とか持ちこたえていましたが、このままでは時間の問題
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事件が変えた京都の守り 二条城の誕生
本圀寺の変は終わりましたが、この事件は重要な教訓を残した