三方ヶ原の戦いは徳川家康が武田信玄に完敗した、家康生涯最大の敗北です。なぜ家康は無謀な出陣をしたのか。戦場で何が起きたのか。そして敗北から何を学んだのか。しかめっ面の肖像画にまつわる伝承とともに、敗北が天下人を作った物語をざっくり解説します。
この記事のポイント
- 三方ヶ原の戦いの概要と徳川家康の大敗北
- 武田信玄の西上作戦と戦略的な狙い(上洛説と領地制圧説)
- 家康が圧倒的不利でも出陣を決めた理由
- 戦場での武田軍の圧倒的な強さと戦いの経過
- しかめっ面の肖像画と、それにまつわる自戒の伝承の真実
- 三方ヶ原の敗北が後の天下統一にどうつながったか
三方ヶ原の戦いとは?徳川家康、人生最大の敗北
三方ヶ原の戦いが起きたのは、1573年1月25日。舞台は遠江国、いまの静岡県浜松市にあたる地域です。
- 当時の家康は29歳であった
- 武田信玄は51歳
- 兵力差は2倍以上である
- 浜松城から北へ、およそ6キロメートルの距離に広がっている
なぜ戦いが起きた?武田信玄の野望と西上作戦
三方ヶ原の戦いを理解するには、その背景にある武田信玄の戦略を知る必要があります。
- 1572年、武田信玄は51歳を迎えている
- 織田信長を包囲・牽制し、天下統一を目指すという通説
- 1572年10月、信玄は甲府を出発した
- 家康は織田信長と同盟を結んでおり、当然ながら武田軍の西進を阻もうとする
圧倒的不利なのに!家康はなぜ出陣を決めたのか
兵力で2倍以上の差があり、相手は戦国屈指の武田軍。常識的に考えれば、城に籠もって守るべき局面です。
- 重臣の石川数正や本多忠勝らは、慎重策を進言したと伝わる
- しかし家康には、籠城できない事情があった
- 信長から援軍を受け取っておきながら、戦わずに武田軍を通過させるわけにはいきない
- 当時29歳の家康は、まだ若く血気盛ん
戦場で何が起きた?武田軍の圧倒的な強さ
1573年1月25日、日没が近づく頃、三方ヶ原の戦いが始まりました。戦いは短時間で決着し、徳川軍は総崩れになったといわれます。
- 武田四天王の一人、山県昌景が率いる赤備えの部隊が動く
- 馬場信春、内藤昌豊らの名将が率いる部隊が、次々と徳川軍を攻撃する
- 武田は騎馬と歩兵を巧みに組み合わせ、徳川方を攻め立てる
- 本多忠真は武田軍に突撃し、討ち死にする
敗北の後に伝わる「しかみ像」家康の険しい肖像
三方ヶ原の戦いから命からがら逃げ帰った家康には、ある有名な逸話があります。それが、徳川家康のしかめっ面の肖像画です。
- 現在、徳川美術館に所蔵されているこの絵には、まるで何かに耐えているような、苦悩に満ちた険しい表情の家康が描かれている
- この絵は、三方ヶ原の敗北直後に描かせたといわれますが、どうやら後の時代に生まれた話のよう
- 恐怖のあまり馬上で脱糞したという話や、敗戦のショックで浜松城に逃げ帰った後、家康が門松の竹を斜めに削ぐように命じたという話
- 家康が敗北から学び、それを忘れなかったことは確かだろう
三方ヶ原の教訓が天下人・徳川家康を作った
三方ヶ原の戦いからおよそ30年後。1600年、関ヶ原の戦いで家康は勝利します。
- 三方ヶ原の大敗から天下統一へ
- 三方ヶ原の戦いののち、家康は無理な決戦を避け、着実に力を整える方針を強める
- そして1582年、織田信長が本能寺の変で倒れた後の混乱期に、旧武田領である甲斐と信濃の一部を手に入れた
- 豊臣秀吉が天下を取る過程でも、家康は無理に対抗せず、秀吉に従いる
流れで見る三方ヶ原の戦い
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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三方ヶ原の戦いとは?徳川家康、人生最大の敗北
三方ヶ原の戦いが起きたのは、1573年1月25日
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なぜ戦いが起きた?武田信玄の野望と西上作戦
三方ヶ原の戦いを理解するには、その背景にある武田信玄の戦略を知る必要がある
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圧倒的不利なのに!家康はなぜ出陣を決めたのか
兵力で2倍以上の差があり、相手は戦国屈指の武田軍
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戦場で何が起きた?武田軍の圧倒的な強さ
1573年1月25日、日没が近づく頃、三方ヶ原の戦いが始まった
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敗北の後に伝わる「しかみ像」家康の険しい肖像
三方ヶ原の戦いから命からがら逃げ帰った家康には、ある有名な逸話がある