教科書だけでは分かりにくい「ゴローニン事件」の世界へようこそ!この動画では、1811年に起きた日本とロシアの外交危機と、それを解決に導いた商人・高田屋嘉兵衛の活躍をざっくり解説します。なぜロシア海軍軍人が日本に捕らえられたのか、どのようにして平和的解決に至ったのか、そして日本の世界観がどう変わったのかを分かりやすく深掘りします。
この記事のポイント
- 文化露寇がもたらした日露関係の悪化
- ゴローニン捕縛と2年2か月の幽閉の実態
- 高田屋嘉兵衛の人質体験と外交交渉
- 言葉の壁を越えた相互理解の過程
- ゴローニン事件が日本の近代化に与えた影響
なぜロシアは日本を襲撃した?文化露寇の衝撃
ゴローニン事件を理解するには、まず、その前に起きた「文化露寇(ぶんかろこう)」という事件から説明せねばなりません。
- 18世紀から19世紀にかけて、ロシア帝国は東方への拡張を進めていた
- 1792年、ロシアは最初の正式な使節として、アダム・ラクスマンを日本に派遣
- そして1804年、ロシアは再び使節を送り込む
- 半年も待たされたあげく、通商の要求は結局、拒絶されてしまう
運命の日!ゴローニン捕縛と二年二か月の幽閉
1811年、ロシア海軍の軍艦ディアナ号が千島列島の海域に現れました。艦長を務めていたのは、当時35歳のワシーリー・ミハイロヴィチ・ゴローニン海軍少佐。
- ゴローニンは、決して日本を敵視してはいなかった
- 彼は慎重な性格で、文化露寇の一件で日本が警戒を強めていることも承知の上である
- 1811年6月、ディアナ号は水と食料を補給するため、国後島の泊湾(とまりわん)へ入った
- 当初は協議の体裁で接触が図られましたが、厳戒態勢にあった日本側は拘束へと踏み切る
日本一の海商・高田屋嘉兵衛の拘束
高田屋嘉兵衛は、1769年に淡路島で生を受けました。貧しい農家の長男として生まれた嘉兵衛は、若いころから商才を発揮し、船乗りとして身を立てます。
- 彼は、危険な津軽海峡を安全に渡る航路を開拓し、「海の王者」とまで呼ばれるようになる
- 1812年、嘉兵衛は自身の持ち船である観世丸に乗り、函館から江戸へ向かっていた
- 同年9月、国後島の沖で思わぬ事態が起こる
- 「日本人を人質に取り、交換条件としてゴローニンの釈放を迫れないか」そう考えた彼は、日本船を探していた
言葉の壁を越えて!嘉兵衛とリコルドの交渉
1813年の春から夏にかけ、国後島の海上で何度も話し合いが持たれます。帰国した嘉兵衛を待っていたのは、松前奉行からの厳しい取り調べでした。
- 「なぜロシア船に捕まったのか」「ロシアで何を見聞きしたのだ」「ロシアの手先になったのではないか」
- ゴローニン釈放こそが、日露の紛争を解決する唯一の道であると訴える
- 「一商人の分際で、国の政策に口を出すな」「ロシアは敵国だ
- 彼は、自分がカムチャツカで見聞きしたことを詳しく報告
ゴローニン事件が変えた日本の世界観
ゴローニン事件の解決は、単なる捕虜交換以上の意味を持つ出来事でした。この事件を通じて、日本は初めて西洋の大国と本格的な外交交渉を経験。
- ゴローニンは、幽閉中に日本の役人たちと多くの対話を重ねた
- 帰国後のゴローニンが著した『日本幽囚記』は、1816年に刊行され、当時のヨーロッパに日本の実情を広く伝える役割を果たした
- 日本側でも、ゴローニンから得た情報は詳細に記録される
- 馬場佐十郎は、ゴローニンとの対話を『ゴローニン口書』としてまとめた
流れで見るゴローニン事件
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
-
なぜロシアは日本を襲撃した?文化露寇の衝撃
ゴローニン事件を理解するには、まず、その前に起きた「文化露寇(ぶんかろこう)」という事件から説明せねばならない
-
運命の日!ゴローニン捕縛と二年二か月の幽閉
1811年、ロシア海軍の軍艦ディアナ号が千島列島の海域に現れた
-
日本一の海商・高田屋嘉兵衛の拘束
高田屋嘉兵衛は、1769年に淡路島で生を受けた
-
言葉の壁を越えて!嘉兵衛とリコルドの交渉
1813年の春から夏にかけ、国後島の海上で何度も話し合いが持たれる
-
ゴローニン事件が変えた日本の世界観
ゴローニン事件の解決は、単なる捕虜交換以上の意味を持つ出来事であった