教科書だけでは分かりにくい「琉球侵攻」の世界へようこそ!この動画では、西暦1609年に薩摩藩が琉球王国に攻め込んだ出来事を、教科書には載らない視点からざっくり解説します。なぜ薩摩藩は攻め込んだのか、わずか数週間で決着した軍事侵攻の裏側、そして「黒いダイヤ」と呼ばれる黒糖の過酷な支配が、後の幕末にどう繋がっていったのかを分かりやすく深掘りします。
この記事のポイント
- 薩摩藩が琉球を侵攻した本当の理由と背景
- わずか数週間で王国が降伏した軍事力の差
- 世界でも珍しい「両属体制」の仕組み
- 薩摩藩を救った「黒糖地獄」と呼ばれる過酷な支配
- 琉球の悲劇が、幕末の薩摩藩と日本の近代化をどう変えたのか
なぜ、薩摩は海を越えて攻め込んだのか?侵攻の背景
まずは、薩摩藩が琉球王国に攻め込むことになった、その背景から見ていきましょう。
- けれど本音は、戦費や参勤交代で財政が逼迫し、藩士の生活にも影響が出ていた薩摩が、琉球の貿易に活路を見いだそうとした
- それは、「貿易利権」
- 琉球は中国との朝貢貿易を通じて、絹織物や陶磁器、薬草、香料などを輸入し、日本で流通させることで利益を得ていた
- 琉球は、明や清と朝貢貿易としての交流が認められ、その品々を本土にもたらして利益を上げていた
わずか数週間で決着した軍事侵攻
薩摩軍は、まず奄美群島を次々と攻略していきます。そして、今の沖縄本島へと上陸しました。
- 薩摩は奄美各島を次々に制圧し、兵糧や船を押収してから本島へ迫った
- 1609年の春、薩摩はおよそ三千の兵で琉球へ向かい、4月上旬には首里城が降伏する
- この時、薩摩藩の捕虜となった国王の尚寧王は、1610年に駿府で家康、江戸で秀忠に拝謁し、1611年にようやく帰国する
謎の外交体制「両属」とは?
さて、琉球侵攻のあと、琉球王国は、当時としてもきわめて特異な外交体制をとることになりました。
- 一つは、薩摩藩の属国として、その支配を受け入れること
- 薩摩藩が、琉球王国を滅ぼすことなく、利用したかったからである
- その後、寛永期に在番の体制が整えられ、1631年には那覇に在番奉行が置かれる
- この両属体制は、琉球の人々にとっては、過酷な支配の始まりでもあった
薩摩藩を救った「黒いダイヤ」と「黒糖地獄」
琉球侵攻によって、薩摩藩は、琉球王国を事実上支配下に置きました。そして、財政難に苦しんでいた薩摩藩を救うことになったのが、奄美群島で大量に生産されていた「サトウキビ」です。
- 薩摩藩は、琉球王国を支配下に置いた後、奄美群島を琉球王国から切り離して、薩摩藩の直轄領とした
- この仕組みは、奄美の島民たちにとっては、まさに「黒糖地獄」と呼ばれるほどの過酷なものであった
- 村ごとに生産割当を課し、年貢を黒糖で納めさせる**換糖上納**と、余剰分まで藩が一括購入する**惣買入**が広がり、私売は禁じられた
- 冊封の場面では、薩摩の関与を直接見せないように体裁を整える工夫が求められた
琉球の悲劇が幕末の日本を変えた
さて、薩摩藩が琉球侵攻で手に入れた黒糖による莫大な利益は、その後の日本の歴史に、決定的な影響を与えることになります。
- 皆さんも、明治維新の立役者として、西郷隆盛や島津斉彬の名前を聞いたことがあるだろう
- こうした基盤があったからこそ、薩摩は長州と並んで倒幕の中心に立ち、明治維新を推し進めることができた
- 琉球侵攻と、それに続く過酷な黒糖専売制は、琉球の人々にとっては悲劇的な歴史でしたが
流れで見る琉球侵攻
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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なぜ、薩摩は海を越えて攻め込んだのか?侵攻の背景
薩摩藩が琉球王国に攻め込むことになった、その背景を確認する
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わずか数週間で決着した軍事侵攻
薩摩軍は、まず奄美群島を次々と攻略していく
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謎の外交体制「両属」とは?
琉球侵攻のあと、琉球王国は、当時としてもきわめて特異な外交体制をとることになった
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薩摩藩を救った「黒いダイヤ」と「黒糖地獄」
琉球侵攻によって、薩摩藩は、琉球王国を事実上支配下に置いた
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琉球の悲劇が幕末の日本を変えた
薩摩藩が琉球侵攻で手に入れた黒糖による莫大な利益は、その後の日本の歴史に、決定的な影響を与えることになった