1285年11月17日、鎌倉で起きた大虐殺事件「霜月騒動」。この日、安達一族と与党に多数の犠牲が出たこの内乱は、鎌倉幕府の性格を根本から変え、やがて幕府滅亡への道を開きました。安達泰盛と平頼綱の権力闘争の真相を、ざっくり・わかりやすく解説します。
この記事のポイント
- 元寇後の鎌倉幕府の混乱と対立の背景
- 安達泰盛(御家人)と平頼綱(御内人)の権力闘争
- 霜月騒動当日の惨劇と多数の犠牲(一次は死者30人・負傷者10人余り、「500人余り」と伝える記録もあり)の詳細
- 事件が鎌倉幕府に与えた致命的な影響
- 霜月騒動から幕府滅亡への道筋
蒙古襲来後の混乱と対立の火種
霜月騒動を理解するためには、まず1274年と1281年に起きた蒙古襲来、すなわち元寇について知る必要があります。
- 特に二度目の弘安の役では、いわゆる神風、つまり台風の助けもあって、元軍は壊滅的な打撃を受けて撤退する
- 戦いには勝ったものの、防衛戦だったため、新しい領地を獲得できなかった
- 命がけで戦った御家人たちは、当然恩賞を期待していた
- 元軍はまた攻めてくるかもしれない
安達泰盛と平頼綱 二人の実力者の権力闘争
安達泰盛と平頼綱。この二人の人物について、もう少し詳しく見ていきましょう。
- 安達氏は、源頼朝が伊豆で挙兵した時から従っていた古い家柄
- 泰盛自身も若い頃から優秀で、評定衆に加わり、幕府の政治に参加するようになる
- 泰盛の政治姿勢は、御家人の利益を守ることを第一としていた
- 頼綱の家は、代々北条氏に仕えてきた家系
霜月騒動の勃発と惨劇
1285年11月17日、霜月と呼ばれる11月のその日、鎌倉は朝から不穏な空気に包まれていました。
- 事の発端は、平頼綱が北条貞時に対して行った密告である
- この密告が真実だったのか、それとも頼綱の陰謀だったのか、今となってはわからない
- 貞時は直ちに、安達泰盛とその一族を討伐する命令を下した
- 泰盛は、まさか自分が攻撃されるとは夢にも思っていなかった
霜月騒動が変えた鎌倉幕府の運命
霜月騒動は、単に安達氏が滅んだというだけの事件ではありませんでした。この事件は、鎌倉幕府の性格を根本的に変え、やがて幕府滅亡への道を開きました。
- それまでの鎌倉幕府は、御家人たちの合議によって運営されていた
- 平頼綱を中心とする御内人が実権を握り、御家人たちは脇役に追いやられる
- 自分たちこそが鎌倉幕府を作り、支えてきたのに、今や北条氏の家来である御内人に支配されている
- 平頼綱の専制は、約7年間続いた
流れで見る霜月騒動
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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蒙古襲来後の混乱と対立の火種
霜月騒動を理解するためには、まず1274年と1281年に起きた蒙古襲来、すなわち元寇について知る必要がある
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安達泰盛と平頼綱 二人の実力者の権力闘争
この二人の人物について、もう少し詳しく見ていく
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霜月騒動の勃発と惨劇
1285年11月17日、霜月と呼ばれる11月のその日、鎌倉は朝から不穏な空気に包まれていた
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霜月騒動が変えた鎌倉幕府の運命
霜月騒動は、単に安達氏が滅んだというだけの事件ではなかった