1868年1月3日(慶応3年12月9日)、京都御所で起きたクーデター「王政復古の大号令」は、260年続いた江戸幕府を終わらせて明治維新への道を開いた歴史的転換点です。大政奉還から王政復古へと至る緊迫の流れ、小御所会議の舞台裏、そして日本の近代化への影響まで、歴史の転換点をわかりやすく解説します。
この記事のポイント
- 王政復古の大号令とは何だったのか、その歴史的意義
- 大政奉還後の徳川慶喜の思惑と薩摩・長州の倒幕計画
- 1868年1月3日に御所で起きた小御所会議の緊迫の一夜
- 三職を設置して作られた新政府の仕組みと実態
- 王政復古が明治維新と近代日本に与えた影響
王政復古の大号令とは何だったのか?たった一夜で政治の流れが一気に動いた日
王政復古の大号令とは、1868年1月3日、慶応3年12月9日に明治天皇の名で発せられた宣言のことです。
- しかしこれは、「完全に昔のやり方に戻す」というより、天皇を中心にして新しい政治を動かすための合言葉であった
- この出来事の大きな特徴は、そのスピードの速さにある
- しかし御所の周りには藩兵が配置され、厳重な警備の中で政治的な手続きが進められていく
- 一方この時、徳川慶喜は二条城にいて、会議には参加していなかった
大政奉還から王政復古へ!徳川慶喜の思惑と倒幕派の野望
王政復古の大号令を理解するには、その直前に起きた大政奉還について知っておく必要があります。
- 1867年11月9日、旧暦の10月14日に、第15代将軍の徳川慶喜は政権を朝廷に返上すると表明した
- 江戸幕府は1603年に徳川家康が開いて以来、260年以上にわたって日本を支配していた
- たとえ形式上は政権を返したとしても、実際の政治は徳川家が担い続けられると考えていた
- 薩摩藩の大久保利通や西郷隆盛、長州藩の木戸孝允ら倒幕派はそれを許しなかった
運命の1868年1月3日!御所で起きた緊迫のクーデター
1868年1月3日、慶応3年12月9日の朝、京都御所では歴史を変える会議が始まろうとしていました。
- 御所の周囲には薩摩藩をはじめとする武装した兵士たちが配置され、厳重に固められていた
- そして徳川慶喜に対し、将軍の地位と領地を返上させる辞官納地を求める方針が示される
- 徳川慶喜を会議に呼ばず、一方的に処分を決めるのは不当だと主張した
- 会議の外には西郷隆盛がいたとも伝えられており、「短刀一本あれば片がつく」と語ったとされている
新政府誕生の舞台裏!三職を設置して作られた天皇中心の国家
王政復古によって誕生した新政府の仕組みについて詳しく見てみましょう。新たに設置された「三職」のうち、最高位の「総裁」には皇族の有栖川宮熾仁親王が任命されます。
- 公家からは中山忠能など、大名からは尾張藩の徳川慶勝や越前藩の松平春嶽などが選ばれている
- そして実務を担う「参与」には下級廷臣に加えて、薩摩や土佐などの藩士も入った
- 皇族を総裁に立てて天皇中心の形を整えたうえで、実務は参与の有力者たちが動かしていくも
- 新政府が最初に取り組んだのは、自らの正統性を国内外に示すことであった
王政復古が日本に与えた影響!近代国家への第一歩
王政復古の大号令が日本の歴史に与えた影響と、その後の展開について考えてみましょう。
- 明治元年の春には「五箇条の御誓文」が発表されて新国家の基本方針が示された
- その後、廃藩置県、身分制の撤廃、教育制度の確立など、近代化のための大改革が実行されていく
- 開国後の日本は新政府のもとで外交を立て直し、条約改正を目指する
- 急激な変革は多くの混乱と犠牲も生み出した
流れで見る王政復古の大号令
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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王政復古の大号令とは、1868年1月3日、慶応3年12月9日に明治天皇の名で発せられた宣言
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新たに設置された「三職」のうち、最高位の「総裁」には皇族の有栖川宮熾仁親王が任命される
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王政復古の大号令が日本の歴史に与えた影響と、その後の展開について考える