教科書だけでは分かりにくい「薩英戦争」の世界へようこそ!この動画では、幕末に起きた日本とイギリスの衝撃的な衝突、その原因となった「生麦事件」、鹿児島湾での死闘、そして戦いの後に生まれた奇妙な友情と、それが日本の近代化、明治維新にどう繋がったのかをざっくり解説します。
この記事のポイント
- 薩英戦争のきっかけとなった「生麦事件」の真実
- 世界最強のイギリス艦隊と薩摩藩が戦った理由と戦闘の様子
- なぜ薩摩藩は圧倒的な戦力差にもかかわらず善戦できたのか
- 戦いの後、敵対関係から一転、薩摩とイギリスが友好関係を築いた経緯
- 薩英戦争が薩摩藩の近代化と日本の明治維新に与えた影響
事件の始まり「生麦事件」!イギリス人を斬った薩摩藩士の事情
さて、薩英戦争の原因となったのは、「生麦事件」という、ちょっとショッキングな事件でした。
- 生麦事件が起きたのは、文久2年、西暦1862年のことであった
- 特に、身分の高い大名の行列とすれ違う際には、一般の人は道端にひれ伏して敬意を示すのが、日本のしきたりだったん
- 無礼討ちとは、武士の権威を著しく損なう行為に対して、その場で斬り捨てることを許された、当時の武士社会の習慣
- 当時の日本は、外国との付き合いが始まったばかりで、お互いの文化や習慣に対する理解がほとんどなかった
激突!薩摩藩vsイギリス艦隊、鹿児島湾の死闘の裏側
生麦事件の後、イギリスは再び薩摩藩に賠償金を要求しましたが、話は一向に進みませんでした。
- イギリス艦隊は、最新鋭の大砲を備え、当時の世界最強と謳われた海軍の力を示していた
- イギリス艦隊は、まずは薩摩藩が持っていた蒸気船を拿捕しようとする
- イギリス艦隊は、薩摩藩の砲台の位置や性能について、事前の情報収集が不十分だったと言われている
まさかの展開!戦いの後の薩摩とイギリス、奇妙な友情が生まれた理由
激しい砲撃戦を繰り広げた薩摩藩とイギリス。普通に考えれば、これほどの大規模な衝突の後には、深い憎しみが残ってもおかしくありませんよね。
- 薩摩藩は、生麦事件の賠償金と、薩英戦争で被った被害の賠償金、合わせて2万5000ポンドという莫大な金額を要求された
- 薩摩藩は、戦争を通じてイギリスの圧倒的な軍事力を目の当たりにした
- 交渉の席で、薩摩藩の代表たちは、非常に冷静かつ論理的にイギリス側の主張を聞き入れ、同時に自分たちの立場も説明した
- 賠償金についても、薩摩藩は自力での支払いが困難だったため、なんと幕府に借金をして支払うことになった
薩英戦争が日本を変えた!富国強兵と明治維新への大きな一歩
薩英戦争は、薩摩藩に大きな衝撃を与えましたが、同時に日本の未来を変える大きなきっかけとなりました。
- 薩摩藩は、富国強兵、つまり国を豊かにし、軍事力を強くすることに力を入れ始める
- 薩摩藩は、イギリスの技術を取り入れて、紡績工場や製鉄所を建設し、積極的に西洋の産業技術を導入する
- 彼らは「薩摩藩英国留学生」として、密かにイギリスへと渡り、西洋の進んだ学問や技術、そして政治制度などを学んだ
- このように、薩英戦争は、薩摩藩の考え方を大きく転換させ、彼らを日本の近代化の牽引役へと押し上げた
流れで見る薩英戦争
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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事件の始まり「生麦事件」!イギリス人を斬った薩摩藩士の事情
薩英戦争の原因となったのは、「生麦事件」という、ちょっとショッキングな事件であった
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激突!薩摩藩vsイギリス艦隊、鹿児島湾の死闘の裏側
生麦事件の後、イギリスは再び薩摩藩に賠償金を要求しましたが、話は一向に進まなかった
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まさかの展開!戦いの後の薩摩とイギリス、奇妙な友情が生まれた理由
激しい砲撃戦を繰り広げた薩摩藩とイギリス
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薩英戦争が日本を変えた!富国強兵と明治維新への大きな一歩
薩英戦争は、薩摩藩に大きな衝撃を与えましたが、同時に日本の未来を変える大きなきっかけとなった