教科書だけでは分かりにくい「長屋王の変」の真実へようこそ!この動画では、729年に起きた奈良時代最初の大政変を、ざっくりと分かりやすく解説します。皇族の頂点に立った長屋王がなぜ自殺に追い込まれたのか、藤原氏の陰謀、そして9年後に明らかになった衝撃の真実まで、歴史の闇と因果応報を詳しく紐解きます。
この記事のポイント
- 長屋王の高貴な血筋と輝かしい前半生
- 藤原不比等の死後に始まった長屋王政権の実績
- 光明子立后問題をめぐる激しい政治闘争
- 密告から自殺まで、わずか3日間の衝撃的な展開
- 藤原四兄弟の相次ぐ病死と長屋王の無実の証明
皇族の頂点に立った男・長屋王の輝かしい前半生
長屋王の変を理解するには、まず長屋王という人物がどれほど高貴で有力だったかを知る必要があります。
- 長屋王は7世紀後半に生まれたとみられ、父は天武天皇の長男である高市皇子、母は天智天皇の娘である御名部皇女
- 正妻の吉備内親王は、元明天皇の娘で、聖武天皇の叔母にあたる人物
- 若い頃の長屋王は、非常に優秀な人物として知られる
- 長屋王は若いころから重責を担い、709年に宮内卿、710年に式部卿、718年には大納言に就任
藤原不比等の死と長屋王政権の誕生
720年8月、日本の政治史に重大な転機が訪れます。藤原不比等の死です。
- 不比等は、約20年にわたって朝廷の実権を掌握していた
- しかし720年8月、藤原不比等は62歳でその生涯を閉じる
- 721年に右大臣となり、実質的に政権のトップに立った
- 長屋王が政権を担うことになったのは、単に地位が高かったからだけではない
藤原四兄弟の野望と光明子立后問題
藤原不比等の死から数年。その息子たちである藤原四兄弟は、次第に力をつけていきます。
- 724年、重要な出来事が起こる
- これは藤原氏にとって大きな好機であった
- ところが、ここに大きな壁が立ちはだかる
- 皇族の血筋を何よりも重視する長屋王
密告から自殺へ・長屋王の変の衝撃的な展開
729年2月10日、朝廷に衝撃的な密告がもたらされます。密告者は漆部君足と中臣宮処東人という二人の下級官人。
- 「長屋王は、ひそかに左道、つまり呪術を学んでいる
- さらに具体的には、聖武天皇の皇子である基王を呪い殺した、と告発した
- この密告を受け、朝廷は直ちに動く
- 密告のわずか翌日、729年2月11日、朝廷は行動を開始
藤原氏の栄光と天然痘・歴史が示した因果応報
長屋王の変の後、藤原四兄弟は朝廷の実権を完全に掌握。長男の武智麻呂は大納言から右大臣へ、次男の房前は参議から、三男の宇合、四男の麻呂もそれぞれ要職に就き、まさに藤原氏の黄金時代が始まったかに見えました。
- これ以降、藤原氏の娘が天皇の后になることが慣例となり、一族は外戚として長期にわたり日本の政治に強い影響力を持つようになる
- 735年から737年にかけて、日本を恐ろしい災厄が襲いた
- この天然痘は、大陸由来とみられる感染症で、当時の日本人には免疫がなかったため
- そして737年、恐るべき事態が起こる
流れで見る長屋王の変
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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皇族の頂点に立った男・長屋王の輝かしい前半生
長屋王の変を理解するには、まず長屋王という人物がどれほど高貴で有力だったかを知る必要がある
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藤原不比等の死と長屋王政権の誕生
720年8月、日本の政治史に重大な転機が訪れる
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藤原四兄弟の野望と光明子立后問題
その息子たちである藤原四兄弟は、次第に力をつけていく
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密告から自殺へ・長屋王の変の衝撃的な展開
729年2月10日、朝廷に衝撃的な密告がもたらされる
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藤原氏の栄光と天然痘・歴史が示した因果応報
長屋王の変の後、藤原四兄弟は朝廷の実権を完全に掌握