奈良時代の大事件・藤原広嗣の乱を、疫病による政変、藤原氏の権力喪失、玄昉と吉備真備への憎しみ、大宰府での挙兵から五島列島での最期まで追いながら、聖武天皇の遷都と大仏造立へつながる流れをわかりやすく整理します。
この記事のポイント
- 藤原四兄弟の死と橘諸兄政権の成立の経緯
- 藤原広嗣が玄昉と吉備真備を憎んだ本当の理由
- 大宰府での挙兵から五島列島での最期までの全経過
- 聖武天皇を5年間も彷徨わせた乱の精神的影響
- 国分寺建立と大仏造立につながった鎮護国家思想の背景
藤原広嗣の乱とは?わずか2ヶ月で鎮圧された大反乱
藤原広嗣の乱は、740年の秋、九州を舞台に起こった反乱です。この事件の主人公、藤原広嗣とは一体どんな人物だったのでしょうか。
- 祖父は、奈良時代の朝廷で絶大な権力を握り、一族繁栄の基礎を築いた藤原不比等
- 宇合を含む四人の兄弟は「藤原四兄弟」と呼ばれ、朝廷の中枢を担っていた
- 737年9月、貴族の仲間入りを意味する従五位下に昇進する
- 20代後半から30代前半とみられる広嗣にとって、まさに順調な歩みであった
藤原四兄弟の死と政権交代!権力を失った藤原氏
藤原広嗣の乱を理解するには、その3年前、737年に遡る必要があります。この年、日本の歴史を大きく変える出来事が起こりました。
- 長男の武智麻呂、次男の房前、三男の宇合、そして四男の麻呂
- 政治の重要な決定は、ほとんど彼らの手で行われていた
- ところが737年春から夏にかけて、恐ろしい疫病が流行する
- 当時の状況から、この天然痘は遣唐使が大陸から持ち帰ったとみられる
玄昉と吉備真備への憎しみ!広嗣が怒った本当の理由
藤原広嗣が特に強く批判したのが、玄昉と吉備真備の二人でした。では、広嗣はなぜこの二人をそれほど憎んだのでしょうか。
- 表面的な理由は、広嗣が朝廷に送った意見書に書かれている
- 「最近、災害や疫病が続いているのは政治が乱れているからだ
- 一見すると政策批判のように見える
- 広嗣は、玄昉と伯母にあたる藤原宮子との関係を問題視していたという
大宰府からの挙兵!1万の兵を率いた決起
740年8月29日、藤原広嗣は運命の意見書を朝廷に送りました。しかし、これは単なる抗議ではありません。
- 広嗣は筑前国の遠賀郡に本営を築いた
- 大宰少弐という立場が、ここで威力を発揮した
- 広嗣が集めた兵力は、約1万に上ったとされる
- 広嗣の戦略は明確であった
官軍の追撃と広嗣の逃亡!五島列島での最期
戦いに敗れた藤原広嗣は、弟の綱手とともに逃亡を開始しました。しかし、もはや九州本土に安全な場所はありません。
- 当時の朝鮮半島方面への渡航を試みたとみられますが、それが唯一の生き延びる道であった
- 広嗣と綱手は船に乗り込み、西へ向けて出航する
- 船は思うように進まず、むしろ押し戻されてしまう
- 現在の五島列島にあたる、小さな島
乱がもたらした激震!聖武天皇の遷都と大仏建立
藤原広嗣の乱は鎮圧されましたが、その影響は計り知れないものでした。特に、聖武天皇の心に深い傷を残します。
- 740年10月26日、天皇は突然「少し都を離れて東へ行く」と告げる
- これは実質的に、平城京からの脱出であった
- この行動は、聖武天皇の深い不安を物語っている
- 12月には美濃や近江へと北上していく
流れで見る藤原広嗣の乱と奈良時代の政変!聖武天皇を揺るがした反乱
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
-
藤原広嗣の乱とは?わずか2ヶ月で鎮圧された大反乱
藤原広嗣の乱は、740年の秋、九州を舞台に起こった反乱である
-
藤原四兄弟の死と政権交代!権力を失った藤原氏
藤原広嗣の乱を理解するには、その3年前、737年に遡る必要がある
-
玄昉と吉備真備への憎しみ!広嗣が怒った本当の理由
藤原広嗣が特に強く批判したのが、玄昉と吉備真備の二人であった
-
大宰府からの挙兵!1万の兵を率いた決起
740年8月29日、藤原広嗣は運命の意見書を朝廷に送った
-
官軍の追撃と広嗣の逃亡!五島列島での最期
戦いに敗れた藤原広嗣は、弟の綱手とともに逃亡を開始した