764年、奈良時代の大きな政変、恵美押勝の乱について解説します。絶大な権力を握っていた藤原仲麻呂が、なぜ反乱を起こし、わずか一週間で滅びたのか、光明皇太后の死と道鏡の台頭、孝謙天皇の覚醒、そして鈴印をめぐる攻防まで、権力闘争のドラマを史実に基づいて紹介します。
この記事のポイント
- 奈良時代の朝廷では、藤原氏が大きな力を持っていた。なかでも藤原仲麻呂は、特別な存在へと上り詰めていく
- 760年、仲麻呂の最大の支え、光明皇太后がこの世を去った。この出来事が、すべての歯車を狂わせ始める
- 道鏡とは、一体どのような人物だったのだろうか。道鏡は河内国、いまの大阪府東部の出身で、弓削氏の一族に生まれた
- 764年9月。ついに仲麻呂は、大きな決断を下する
奈良時代の権力構造と藤原仲麻呂の台頭
奈良時代の朝廷では、藤原氏が大きな力を持っていました。なかでも藤原仲麻呂は、特別な存在へと上り詰めていきます。
- 最大の強みは、叔母が聖武天皇の妻、光明皇后だった点にある
- 737年に、藤原四兄弟が天然痘で相次いで亡くなったからである
- やがて749年、孝謙天皇が即位する
- しかし757年、橘奈良麻呂の変が起きる
光明皇太后の死と運命の分岐点
760年、仲麻呂の最大の支え、光明皇太后がこの世を去りました。この出来事が、すべての歯車を狂わせ始めます。
- 光明皇太后は、仲麻呂にとって叔母であり、権力の源であった
- そんな時、孝謙天皇は病に伏せってしまう
- 道鏡という名の人物
- すると道鏡の看病は効果を発揮し、孝謙天皇の病はしだいに快方へ向かう
道鏡の登場と孝謙天皇の覚醒
道鏡とは、一体どのような人物だったのでしょうか。道鏡は河内国、いまの大阪府東部の出身で、弓削氏の一族に生まれました。
- 孝謙天皇の看病を通じて、二人の間には深い信頼関係が築かれる
- 母である光明皇太后の生前、孝謙天皇は比較的おとなしく、仲麻呂の政治を認めていた
- 実際に、孝謙天皇は、自ら政治の主導権を握ろうとした
- 天皇でありながら実質的な権力を持たず、仲麻呂という後ろ盾があっても孝謙天皇の権威には対抗できない
追い詰められた仲麻呂、決断の時
764年9月。ついに仲麻呂は、大きな決断を下します。
- 都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使という、極めて長い名の役職に就いた
- 各国から二十人ずつ兵を集めて訓練を行うという建前
- 数百人規模の兵力が集まれば、強力な軍事力となるはずだ
- 池田王は夏ごろから兵や馬を集めており、周到な準備が進められていたことがうかがえる
一週間の激闘、鈴印喪失と都落ち
鈴印を奪われた仲麻呂に、もはや都に留まる場所はありません。彼は平城京を脱出し、息子が国司として働いている越前へ向かうことを決めました。
- 仲麻呂の息子、藤原辛加知が越前守として赴任しており、確実な味方がいた
- 討伐軍の指揮官に、吉備真備が任命される
- 真備はかつて遣唐使として唐へ渡り、知識を学んで帰国した学者である
- 彼は仲麻呂が東国へ向かうと予測し、その経路上にある瀬田の唐橋が重要だと見抜いた
乱が日本の歴史に残したもの
恵美押勝の乱は、日本の歴史に何を残したのでしょうか。この乱は、武力によって最高権力者が排除された、奈良時代を代表する事件でした。
- 孝謙天皇、のちの称徳天皇が政治の中心に立ち、軍事行動まで指揮した
- 代わって台頭したのが僧侶の道鏡であった
- 770年に称徳天皇が亡くなって道鏡が失脚すると、次の光仁天皇、そして桓武天皇の時代に大きな変化が起きる
- 東大寺などの大寺院が政治に及ぼす影響を断ち切るため、新しい都では寺院の建設が制限される
流れで見る恵美押勝の乱
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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奈良時代の権力構造と藤原仲麻呂の台頭
奈良時代の朝廷では、藤原氏が大きな力を持っていた
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光明皇太后の死と運命の分岐点
760年、仲麻呂の最大の支え、光明皇太后がこの世を去った
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道鏡の登場と孝謙天皇の覚醒
道鏡は河内国、いまの大阪府東部の出身で、弓削氏の一族に生まれた
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追い詰められた仲麻呂、決断の時
764年9月
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一週間の激闘、鈴印喪失と都落ち
彼は平城京を脱出し、息子が国司として働いている越前へ向かうことを決めた