平禅門の乱は、内管領の平頼綱が主君北条貞時によって討たれた鎌倉幕府の大事件です。本編では霜月騒動、御内人支配、永仁の徳政令までをたどり、元寇後の政治混乱と幕府滅亡への流れを整理していきます。
この記事のポイント
- 元寇後の鎌倉幕府で起きた権力闘争の実態
- 霜月騒動で安達泰盛が滅ぼされた経緯
- 平頼綱の恐怖政治と御内人支配の7年間
- 1293年の鎌倉大地震と平禅門の乱の関係
- 得宗専制政治の確立と鎌倉幕府滅亡への道
元寇後の鎌倉幕府!若き執権と二人の権力者
鎌倉時代後期、日本は二度にわたるモンゴル帝国の侵攻を退けました。1274年の文永の役、そして1281年の弘安の役です。
- 元寇を指揮したのは、8代執権の北条時宗である
- 少年執権を支えるため、二人の実力者が表舞台へ姿を現した
- 安達氏は、源頼朝の時代から北条氏に仕えてきた、由緒ある御家人として知られている
- 『蒙古襲来絵詞』には、竹崎季長がその泰盛に訴えかける姿が残されている
御家人vs御内人!霜月騒動で安達泰盛が滅ぶ
1285年11月17日、鎌倉でひとつの事件が起きます。霜月騒動と呼ばれる政変です。
- 宗景は自分が源頼朝の子孫だと主張し、源氏に改姓しようと動いた
- 頼綱は貞時に「安達氏は将軍の座を狙っている」と吹き込む
- 11月17日の昼、松谷の別邸で異変を知った泰盛は、塔ノ辻の屋敷を経て、貞時邸へ駆けつけようとする
- 死者は30人を超え、将軍の御所さえ炎上する激しい戦いとなる
平頼綱の恐怖政治!専横を極めた7年間
霜月騒動から1293年までの約7年間。この期間、鎌倉幕府の実権は平頼綱が握り続けました。
- 権力を強めていく中で、頼綱は出家して平禅門と名乗るようになる
- 重要な職は全て頼綱に近い御内人が占め、御家人は政治の中枢から排除されていく
- 将軍の権限は、御内人が監視し、実質的に管理することになった
- 頼綱は息子の資宗を、検非違使や安房守といった高い地位につけた
鎌倉大地震と運命の夜!平禅門の乱はこうして起きた
1293年5月、巨大地震が鎌倉を襲いました。時刻は朝の4時から6時ごろ。
- 地震の規模は、マグニチュード7クラスと推定される
- 山は崩れ、地は裂け、津波も発生したという
- いずれにせよ、鎌倉の歴史でも最悪級の災害であった
- この混乱の中、北条貞時は決断する
得宗専制政治の完成!鎌倉幕府が辿った道
平禅門の乱のあと、北条貞時はどのような政治を行ったのでしょうか。貞時は、父の時宗が目指した政治体制を完成させようと動きます。
- 1293年、貞時は引付を廃止する
- 寄合は幕府の公的な機関ではなく、貞時の私邸で開かれる私的な会議であった
- この寄合で実質的な政治判断が行われ、その決定を貞時が最終的に承認する形になった
- 得宗である貞時が全ての権力を握り、北条一門と御内人たちが政治を動かする
流れで見る平禅門の乱と北条貞時の政変劇―平頼綱失脚の舞台裏
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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元寇後の鎌倉幕府!若き執権と二人の権力者
1274年の文永の役、そして1281年の弘安の役
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御家人vs御内人!霜月騒動で安達泰盛が滅ぶ
1285年11月17日、鎌倉でひとつの事件が起きる
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平頼綱の恐怖政治!専横を極めた7年間
霜月騒動から1293年までの約7年間
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鎌倉大地震と運命の夜!平禅門の乱はこうして起きた
1293年5月、巨大地震が鎌倉を襲いた
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得宗専制政治の完成!鎌倉幕府が辿った道
貞時は、父の時宗が目指した政治体制を完成させようと動く