北部九州の弥生遺跡から見つかった絹織物を手がかりに、渡来人による技術革新の歴史をたどります。秦氏の登場や租庸調制度での絹の役割、そして現代の織物文化まで、日本の基盤を変えた「糸と布」の物語です。
この記事のポイント
- 弥生時代には既に日本で絹織物が作られていた証拠
- 秦氏が5世紀ごろに大規模な養蚕と機織技術を導入した経緯
- 租庸調制度で絹が重要な税となり全国に生産が広がった過程
- 養蚕業が明治時代に日本の近代化を支えた歴史
- 古代から続く織物技術が現代の伝統工芸につながる様子
仏教伝来より前に来たもの - 渡来人がもたらした技術革新
6世紀半ばのことです。百済の聖明王が、欽明天皇へ仏像と経典を献上しました。
- 仏教が伝わる前から、日本には朝鮮半島や中国大陸から多くの人々が渡ってきていた
- 武器や土器の製作から、農業や土木のノウハウまで多岐にわたる
- 研究者の整理によれば、おおよそ4つの時期に分けられる
- 最初の大きな波は、紀元前2世紀から3世紀ごろのことであった
弥生時代の絹 - 日本最古の養蚕技術の痕跡
福岡県の有田遺跡で、驚くべき発見がありました。紀元前200年ごろ、今から2200年以上も前の平絹が見つかったのです。
- 北部九州の弥生時代の遺跡からは、同時期の絹が出土している
- つまりこの時代の日本列島には、すでに蚕から糸を取り、布に織り上げる技術があったことになった
- 興味深いことに、有田遺跡から出土した絹織物は、当時の中国製とは織り方が異なっていた
- およそ5000年前、紀元前3000年ごろの黄河や長江の流域で、野生のクワコが家畜化されたのが始まりとされている
秦氏の登場 - 大規模な技術導入と養蚕の本格化
『日本書紀』には、応神天皇が即位して14年目の出来事が記されています。弓月君という人物が、120もの小さな地域に暮らす人々を率いて、百済から日本へ渡ろうとしました。
- 3年経っても戻らなかったため、即位16年目に精鋭の兵を送り、新羅王に謝罪させる
- 「120の地域に暮らす人々」といえば、おそらく1万人を超える大集団
- 『新撰姓氏録』では秦の始皇帝の末裔としていますが、これは平安時代に書かれたもので、実際は新羅系の渡来人だったと考えられている
- 秦氏が拠点とした山城国、今の京都は、当時まだ開発が進まず、水の扱いにも苦労する土地であった
絹が変えた古代日本 - 税制と社会への影響
養蚕と機織の技術が広まり、日本の社会はどう変わったのでしょうか。
- それまでは麻や植物性の繊維で作った布が主流であった
- 庶民が簡単に手に入れられるものではない
- 646年、「大化の改新」で新しい税制の方針が打ち出された
- 絁とは、太い糸で平織りにした絹織物
技術が紡いだ文化 - 現代へと続く織物の伝統
奈良時代には、大和政権の影響下にあった地域では、北海道などを除き、ほぼ全国で養蚕が行われるようになりました。
- シルクロードを経て伝わった意匠や文様が、日本の技術と融合した見事な作品ばかり
- 平安時代に入ると、律令制がゆらぎ、税として絹を集める仕組みはしだいに弱まった
- 経済成長により生糸の需要が高まり、幕府も養蚕を奨励した
- 1803年、上垣守国は『養蚕秘録』をまとめ上げた
流れで見る養蚕と機織
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
-
仏教伝来より前に来たもの - 渡来人がもたらした技術革新
6世紀半ば
-
弥生時代の絹 - 日本最古の養蚕技術の痕跡
紀元前200年ごろ、今から2200年以上も前の平絹が見つかった
-
秦氏の登場 - 大規模な技術導入と養蚕の本格化
弓月君という人物が、120もの小さな地域に暮らす人々を率いて、百済から日本へ渡ろうとした
-
絹が変えた古代日本 - 税制と社会への影響
養蚕と機織の技術が広まり、日本の社会はどう変わった
-
技術が紡いだ文化 - 現代へと続く織物の伝統
奈良時代には、大和政権の影響下にあった地域では、北海道などを除き、ほぼ全国で養蚕が行われるようになった