平治の乱は1159年、京都で勃発した源氏と平氏の激突です。保元の乱でともに戦った仲間が、なぜわずか3年で敵同士となったのか。恩賞の不公平、後白河上皇の側近同士の対立、平清盛の熊野詣を狙った源義朝の挙兵、そして源義朝の悲劇的な最期まで、武士が政治の中心に躍り出るきっかけとなった歴史的事件を詳しく解説します。
この記事のポイント
- 保元の乱後の源義朝と平清盛の待遇差と対立の背景
- 藤原信頼と源義朝が平清盛の留守を狙って挙兵した経緯
- 平清盛の巧みな逆襲と天皇奪還作戦の詳細
- 源義朝が家臣の長田忠致に裏切られた悲劇的な最期
- 平治の乱後の平氏政権の確立と源頼朝の生き残り
保元の乱を勝利した源義朝と平清盛!なぜ仲間割れしたのか
平治の乱を理解するには、その3年前に起こった保元の乱を知る必要があります。
- 1156年7月、京都で保元の乱が勃発した
- 平清盛は後白河天皇側に、叔父の平忠正は崇徳上皇側につく
- この戦いは、源義朝が提案した夜襲によって、後白河天皇側の勝利に終わる
- 共に戦い、共に勝った平清盛
平清盛の熊野詣の隙をついた源義朝の挙兵!平治の乱勃発
1159年12月、ついにその時が訪れます。平清盛が一族を率いて、熊野詣に出かけたのです。
- 12月9日の深夜、源義朝率いる軍勢が動き出する
- 彼らが最初に襲撃したのは、後白河上皇の御所である三条殿であった
- 京都から南へ逃げ、山の中に隠れて身を潜めた
- 藤原信頼と源義朝は、上皇と天皇を手中に収め、政敵の信西を倒した
平清盛の逆襲!天皇を奪還して形勢逆転
天皇を奪われた藤原信頼と源義朝は、慌てふためきます。それまで味方だった貴族たちも、次々と平清盛側に寝返りました。
- 命を受けた清盛は、弟の平頼盛と長男の平重盛に軍を任せ、内裏へと送り出した
- 源義朝の長男・義平は、「悪源太」の異名を持つ勇猛な武将
- 一時は平氏の軍勢を押し返し、六波羅の近くまで攻め込む場面もある
- 特に大きな打撃となったのは、源頼政という有力武将が平清盛側についたことであった
源義朝の悲しい最期と源頼朝の運命
戦いに敗れた源義朝は、東国へと逃れます。関東は源氏の地盤が強い地域です。
- 源義朝には多くの息子がいましたが、同行したのは長男の義平、次男の朝長、そして三男の頼朝であった
- 美濃の青墓に着くころには、もう歩けない状態になってしまう
- 途中、伊勢国、現在の三重県にあたる地で、一行は散り散りになった
- そして1160年2月、知多郡の野間という場所にたどり着く
平氏政権の誕生と源氏の再起!武家の時代へ
平治の乱の勝利により、平清盛と平氏一門の地位は飛躍的に高まります。
- 戦いの直後、1159年12月29日に恩賞の人事が行われた
- 1167年2月、平清盛はついに太政大臣に任命された
- 1180年には、徳子が産んだ皇子が安徳天皇として即位する
- 一門の高官は10数人、殿上人が30人を超え、その他の役人を含めると60人以上が関係者だったと言われる
流れで見る平治の乱はなぜ起きた?源義朝と平清盛の決裂
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
-
保元の乱を勝利した源義朝と平清盛!なぜ仲間割れしたのか
平治の乱を理解するには、その3年前に起こった保元の乱を知る必要がある
-
平清盛の熊野詣の隙をついた源義朝の挙兵!平治の乱勃発
1159年12月、ついにその時が訪れる
-
平清盛の逆襲!天皇を奪還して形勢逆転
天皇を奪われた藤原信頼と源義朝は、慌てふためく
-
源義朝の悲しい最期と源頼朝の運命
戦いに敗れた源義朝は、東国へと逃れる
-
平氏政権の誕生と源氏の再起!武家の時代へ
平治の乱の勝利により、平清盛と平氏一門の地位は飛躍的に高まる