松永久秀の評価は「梟雄」か「革新の才」か。永禄の変や東大寺大仏殿焼失の実相を踏まえ、出自不詳から大和支配に至る歩みと最期の選択をわかりやすく紹介します。
この記事のポイント
- 松永久秀が日本三大梟雄と呼ばれる理由
- 三好長慶配下から権力者への下剋上の軌跡
- 将軍暗殺と東大寺大仏殿焼失の真相
- 織田信長との複雑な関係と二度の裏切り
- 信貴山城で切腹・自焼したという史実と、平蜘蛛爆死の伝説
日本三大梟雄・松永久秀とは何者だったのか
松永久秀の生まれは、実ははっきりとしていません。生年は不詳で、1508年頃や1510年頃といった諸説があります。
- このように出自がはっきりしないということは、当時としては身分が低かったことを意味する
- 若い頃の松永久秀について確実に分かっているのは、1540年代には三好長慶という武将のもとで台頭し、大和支配の中心を担っていたことだ
- 久秀は武勇に優れるだけでなく、政治的な駆け引きも巧みで、何より茶の湯などの文化にも通じていた
- 茶会は重要な外交の場であり、茶器は権威の象徴でもある
下剋上の申し子・三好家での権力掌握
松永久秀が歴史の表舞台に登場するのは、三好長慶に仕えるようになってからです。三好長慶は1522年に生まれ、若くして三好家の当主となりました。
- 1549年、室町幕府の実権を掌握し、事実上の天下人となった
- 松永久秀は、強大な寺院勢力と巧みに交渉した
- 1564年、松永久秀の運命を大きく変える出来事が起こる
- 表向きは三好義継を支える立場を取りながら、実際には自分の勢力拡大を図っていいた
前代未聞の大事件・将軍暗殺と大仏殿焼き討ち
1565年5月19日の朝、二条御所は包囲され、義輝は討たれました。手勢はわずか数十人。
- 確かに、事件後に最も利益を得たのは松永久秀であった
- たとえ久秀の関与が疑わしかったとしても、その名は“将軍殺し”として広まり、悪名が定着していった
- そして1567年10月10日、もう一つの大事件が起こる
- 東大寺は、743年に聖武天皇の発願で建立された日本を代表する寺院である
織田信長との危険な駆け引き
1568年9月、織田信長が足利義昭を奉じて上洛しました。松永久秀は、信長の圧倒的な軍事力を前に、抵抗を諦め降伏することを選びます。
- 久秀の政治手腕、軍事的才能、そして文化的素養を認めていた
- 信長が彼を「将軍殺し、主殺し、大仏殿焼失」の三つの大悪と評したという話は、江戸時代の『常山紀談』に見える逸話
- 1571年、松永久秀は突然信長に反旗を翻した
- 久秀は再び現実的な選択をする
信貴山城の最期・伝説の茶釜と共に散った壮絶な最期
1577年10月、織田信長の大軍が信貴山城を包囲しました。松永久秀が守る城には、わずかな兵しかいません。
- 信長が「平蜘蛛の茶釜を差し出せば助ける」と久秀に勧告したという話、そして久秀が「平蜘蛛とこの首
- 1577年10月10日夜から11日未明、運命の日がやっていた
- 史料によれば、久秀は切腹ののち、火薬に火を放ち、自ら命を絶ったと伝わる
- 久秀とともに平蜘蛛が破壊されたという説は有名
流れで見る松永久秀の最期
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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日本三大梟雄・松永久秀とは何者だったのか
生年は不詳で、1508年頃や1510年頃といった諸説がある
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下剋上の申し子・三好家での権力掌握
三好長慶は1522年に生まれ、若くして三好家の当主となった
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前代未聞の大事件・将軍暗殺と大仏殿焼き討ち
1565年5月19日の朝、二条御所は包囲され、義輝は討たれた
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織田信長との危険な駆け引き
1568年9月、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した
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信貴山城の最期・伝説の茶釜と共に散った壮絶な最期
1577年10月、織田信長の大軍が信貴山城を包囲した