2世紀後半、日本列島で起きた最初期の大規模な内戦、倭国大乱。中国の歴史書『後漢書東夷伝』と『魏志倭人伝』の記述をもとに、なぜ争いが始まったのか、どんな戦いだったのか、そして卑弥呼はどのように乱世を収めたのかを、わかりやすく解説します。
この記事のポイント
- 倭国大乱が起きた時期と中国史書の記録内容
- 平和な縄文時代から争いの弥生時代への変化の理由
- 環濠集落や高地性集落など戦いの考古学的証拠
- 卑弥呼が女王に選ばれた背景と統治の仕組み
- 倭国大乱が日本の国家形成に与えた影響
日本史上初の内戦!倭国大乱とは何だった?
倭国大乱は、日本列島で起きた最初期の大規模な戦乱を指します。教科書にも登場するため、名前を聞いたことがあるかもしれません。
- その時期は、弥生時代の末から3世紀前半、古墳時代へ移り変わるころ
- この出来事が日本の記録ではなく、中国の史書に書かれている点は、当時の状況を理解するうえで大きな手がかりになる
- 一つは後漢という王朝の歴史をまとめた『後漢書』の東夷伝
- その完成はおよそ432年ごろとされている
平和だった縄文から一変!弥生時代に争いが始まった理由
倭国大乱の舞台となった弥生時代は、縄文時代とはずいぶん違った特徴を持っていました。
- 弥生時代の始まりとともに日本へ広まった稲作の存在がある
- 弥生時代になると、水田で稲を育てる生活が広まった
- 稲作には多くの水が必要でしたが、その水は十分とは言えなかった
- 寒冷化に向かったとする研究があり、不作が争いの緊張を高めたと考えられる
中国の史書が記録した!後漢書と魏志倭人伝の記述
では、中国の史書には、倭国大乱について具体的に何が書かれているのでしょうか。まず、時代をさかのぼって、倭国が中国と初めて外交関係を持った記録を見てみましょう。
- 『後漢書』には、57年に倭の奴国の王が後漢に使いを送り、金印を受け取ったという出来事が記されている
- さらに107年には、倭国王の帥升という人物が後漢の皇帝へ使いを送った
- 107年を過ぎると、倭国から中国への使者の記録がぱったりと途絶える
- 146年から189年にかけて、倭国は大いに乱れた
戦いの証拠を探る!高地性集落と環濠集落の謎
中国の史書に記された倭国大乱。その証拠を、考古学の発見から探ってみましょう。
- 弥生時代の遺跡を調査すると、当時の人々が戦いに備えていた痕跡がはっきりと見つかる
- 環濠集落とは、集落の周りに深い溝、いわゆる『環濠』を掘り、外敵の侵入を防いだ集落を指する
- 環濠集落の代表例として有名なのが、佐賀県の吉野ケ里遺跡である
- これは、山の上など見晴らしの良い場所に作られた集落
救世主登場!卑弥呼はどうして女王になれたのか
七十年以上も続いた倭国大乱は、女王卑弥呼の登場で終わりを迎えます。まず注目したいのは、卑弥呼が女性だったという点。
- 卑弥呼には、特別な力があった
- 卑弥呼は1000人もの侍女を従え、政治は弟が助けていたとされる
- 卑弥呼は人前にはほとんど姿を見せず、人々からは神秘的な存在として見られていた人物
- 卑弥呼は、魏の皇帝から「親魏倭王」の称号と金印を受け取った
流れで見る倭国大乱
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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日本史上初の内戦!倭国大乱とは何だった?
倭国大乱は、日本列島で起きた最初期の大規模な戦乱を指する
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平和だった縄文から一変!弥生時代に争いが始まった理由
倭国大乱の舞台となった弥生時代は、縄文時代とはずいぶん違った特徴を持っていた
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中国の史書が記録した!後漢書と魏志倭人伝の記述
時代をさかのぼって、倭国が中国と初めて外交関係を持った記録は次の通りである
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戦いの証拠を探る!高地性集落と環濠集落の謎
中国の史書に記された倭国大乱
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救世主登場!卑弥呼はどうして女王になれたのか
七十年以上も続いた倭国大乱は、女王卑弥呼の登場で終わりを迎える