戦国最強と謳われた上杉謙信が織田軍を打ち破った手取川の戦い。史料が少なく謎に包まれたこの戦いの背景から結末まで、七尾城攻防戦での疫病と内応、羽柴秀吉の離脱の異説、謙信の急死とその後の影響をわかりやすく解説します。
この記事のポイント
- 1577年9月23日に起こった手取川の戦いの概要と謎
- 七尾城をめぐる上杉謙信と織田信長の北陸争奪戦
- 七尾城陥落の決定打となった疫病と内応
- 柴田勝家率いる織田方の大軍。兵力には諸説ある
- 羽柴秀吉が戦線離脱した理由と戦いの経過
- 謙信最後の大勝利がもたらした影響と御館の乱
謎多き手取川の戦いとは?語り継がれる謙信の圧勝
1577年9月23日、加賀国の手取川で、後に戦国史を彩る激戦が始まります。それが手取川の戦いです。
- これは、越後の龍と呼ばれた上杉謙信と、天下統一を目指す織田信長の勢力が、初めて本格的に衝突した戦いであった
- 上杉軍は、およそ1万2000から2万とされている
- 退く織田軍に上杉方が追いすがり、夜のうちに攻めかかった
- 「上杉に逢うては織田も手取川、はねる謙信、逃げるとぶ長」
なぜ戦いは起きた?七尾城をめぐる攻防と信長の北陸戦略
手取川の戦いを語るには、その前に起きた七尾城の攻防を押さえておく必要があります。
- 守護大名とは、幕府のもとで軍事や税の権限を強め、家臣団を組織して領地支配を固めた大名を指する
- 1574年7月、当主の畠山義隆が急死
- 一人は越後の上杉謙信、もう一人は織田信長
- 上杉謙信にとって、能登の制圧は重要な戦略であった
織田軍出陣!豪華な武将たちと秀吉の離脱
織田信長が派遣した援軍は、まさに豪華な顔ぶれ。総大将は柴田勝家。
- 8月8日、織田軍は七尾城の救援に向けて出陣した
- 羽柴秀吉が、軍を離れ帰陣した
- よく知られるのは、主将の柴田勝家と戦略をめぐって意見が食い違ったという説
- いずれにせよ、秀吉がいなくなったことで、織田軍の戦力は低下した
手取川の激突!上杉軍はどのように勝利したのか
撤退を始めた織田軍に対し、上杉謙信は追撃を命じます。謙信にとって、これは織田軍を打ち破る絶好の機会でした。
- 1577年9月23日、この日に戦いが起きたと語られている
- 23日夜、上杉方が攻勢に出て、撤退中の織田軍を攻撃する
- 織田軍の兵士たちは、川を渡って逃げようとする
- 勝家らは何とか加賀から脱出し、越前へと撤退した
謙信最後の戦いが残したもの
手取川の戦いの後、上杉謙信は次の行動を計画していました。能登を固め、さらに織田領へと攻め込む準備を進めていたのです。
- 1578年3月13日、謙信は春日山城で急死し、49歳でその生涯を閉じる
- 謙信には実子がおらず、養子が二人いましたが、誰を後継にするのかは決められないまま亡くなった
- 最終的には景勝が勝利しますが、この内乱で上杉家の力は大きく衰えた
- 柴田勝家らに命じて、越中や上野へと侵攻させた
流れで見る手取川の戦い
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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謎多き手取川の戦いとは?語り継がれる謙信の圧勝
1577年9月23日、加賀国の手取川で、後に戦国史を彩る激戦が始まる
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なぜ戦いは起きた?七尾城をめぐる攻防と信長の北陸戦略
手取川の戦いを語るには、その前に起きた七尾城の攻防を押さえておく必要がある
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織田軍出陣!豪華な武将たちと秀吉の離脱
織田信長が派遣した援軍は、まさに豪華な顔ぶれ
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手取川の激突!上杉軍はどのように勝利したのか
撤退を始めた織田軍に対し、上杉謙信は追撃を命じる
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謙信最後の戦いが残したもの
手取川の戦いの後、上杉謙信は次の行動を計画していた