昭和改元は「その日のうち」に決まった――1926年12月25日の動きを追いながら、大正天皇崩御の報が号外やラジオで広がった様子と、摂政宮だった裕仁親王の立場を史料にもとづいて解説します。
この記事のポイント
- 1926年12月25日に起きた大正天皇崩御と即座の昭和改元の経緯
- 大正天皇の人物像と健康問題、摂政宮誕生の背景
- 1921年から始まった摂政宮裕仁親王の時代と役割
- わずか15年間の大正時代がもたらした民主主義と文化の発展
- 改元の仕組みと昭和という元号に込められた意味
1926年12月25日、大正天皇崩御と昭和改元
1926年12月25日。この日、日本中が悲しみに包まれます。
- 12月25日から昭和元年が始まりますが、この日は同時に大正15年の最後の日でもあった
- 大正時代は、民主主義が広がり、文化が花開いた時代
- 関東大震災の傷跡はまだ癒えておらず、経済は不安定なまま
- 新聞は号外を発行し、ラジオは臨時ニュースを放送した
大正天皇とはどんな天皇だったのか
大正天皇は、1879年8月31日、明治天皇の第3皇子として誕生されました。幼いころの名前は、明宮嘉仁親王といいます。
- 皇太子時代の嘉仁親王は、学問を重んじる教育を受けていた
- やがて1900年、嘉仁親王は九条節子と結婚する
- 第一次世界大戦が勃発し、日本も参戦する
- 記録によれば、温厚で思いやりのある性格だったとされる
大正天皇の健康悪化と摂政宮の誕生
やがて、大正天皇の健康問題は次第に深刻になっていきます。1919年頃から、その症状は目に見えて現れるようになりました。
- この状況に、宮内省は難しい判断を迫られる
- 摂政とは、天皇が幼少であったり病気であったりして、自ら統治できない場合に、天皇に代わって国事行為を行う役職
- こうして1921年11月25日、皇太子裕仁親王が摂政に就任される
- 注目されるのが、ヨーロッパ訪問
大正時代の15年間を振り返る
大正時代は、1912年から1926年までの15年間です。明治と昭和に挟まれた短い時代でしたが、日本社会に大きな変化をもたらしました。
- 大正時代には、大正デモクラシーと呼ばれる民主主義運動が広がっていく
- 原敬が本格的な政党内閣を組織し、政友会が政治の中心を担うようになった
- 大正ロマンと呼ばれる文化が花開き、文学、美術、音楽などさまざまな分野で新しい表現が生まれた
- 東京や大阪などの大都市では、カフェや映画館が次々とオープンする
昭和への移行と国民の反応
1926年12月25日、大正天皇崩御の報は、瞬く間に全国へ広がりました。ラジオ放送が始まって間もない時代でしたが、この日、臨時ニュースが流れます。
- 多くの人々が深い悲しみに包まれ、涙を流したという
- 街では、店が自主的に休業し、娯楽施設も営業を停止する
- 若い世代の中には、新しい時代の到来に期待を抱く者もいた
- 12月25日という日付は、人々に複雑な思いを抱かせた
改元の仕組みと新時代の幕開け
昭和という元号は、どのようにして決められたのでしょうか。改元の手続きには、厳格なルールがありました。
- 1926年12月25日、大正天皇の崩御を受け、枢密院が招集された
- 元号の候補は、複数の学者によって出された
- 新天皇の裁可を受け、改元は正式に決定した
- 12月25日をもって、暦は昭和元年に切り替わる
流れで見る大正天皇崩御と昭和改元
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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1926年12月25日、大正天皇崩御と昭和改元
1926年12月25日
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大正天皇とはどんな天皇だったのか
大正天皇は、1879年8月31日、明治天皇の第3皇子として誕生された
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大正天皇の健康悪化と摂政宮の誕生
1919年頃から、その症状は目に見えて現れるようになった
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大正時代の15年間を振り返る
大正時代は、1912年から1926年までの15年間である
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昭和への移行と国民の反応
1926年12月25日、大正天皇崩御の報は、瞬く間に全国へ広がった