長岡京遷都はなぜ行われ、なぜわずか10年で廃都になったのか。桓武天皇の決断、藤原種継暗殺事件、早良親王の悲劇、そして怨霊伝説まで、最短級の都の全貌を史料にもとづいて解説します。
この記事のポイント
- 桓武天皇が長岡京へ遷都した3つの理由と背景
- 藤原種継暗殺事件と早良親王の悲劇的な運命
- 日本史上有名な怨霊伝説の始まりと展開
- 長岡京で起こった災害と不幸の連鎖
- わずか10年で平安京へ再遷都した真の理由
桓武天皇が長岡京へ遷都した3つの理由
784年11月11日、第50代天皇である桓武天皇は、都を平城京から長岡京へと遷しました。
- その理由は大きく分けて3つあったと考えられている
- 第一の理由は、平城京の仏教勢力から離れたかったからである
- 政治は天皇が行うべきものであり、僧侶たちたちに左右されるべきではない
- 桓武天皇の父・光仁天皇は、天智天皇の孫にあたる人物
大事件発生!藤原種継暗殺事件の衝撃
785年9月23日の夜のことでした。長岡京の造営を指揮していた総責任者、藤原種継が、何者かに矢で襲われ、翌日に死亡しました。
- なぜなら、種継は遷都事業の中心人物だったからである
- 朝廷はただちに捜査を始め、最初に捕らえられたのは大伴竹良という人物であった
- 家持は歌人としても有名で、万葉集の編纂にも関わった文化人であった
- 事件に関わった多くの者が斬首や流罪となり、貴族の中にも処罰を受けた者がいた
早良親王の悲劇と怨霊伝説の始まり
早良親王の死からまもなく、785年11月25日、桓武天皇の息子・安殿親王が皇太子に指名されました。
- けれども、その死は単なる事件の幕引きではない
- 791年から792年ごろ、新しい皇太子だった安殿親王が、原因不明の病にかかった
- 788年5月、桓武天皇の妃・藤原旅子が亡くなる
- 789年1月に生母の高野新笠が崩御
災いは続く!次々と襲った不幸の連鎖
桓武天皇が亡くなり、安殿親王が即位して平城天皇となりました。しかし、早良親王の怨霊を巡る物語は、まだ終わりません。
- 平城天皇は、即位した年の冬、早良親王のために八嶋寺を建てた
- 平城天皇自身も病気に悩まされるようになる
- 810年7月27日、親王のために百人の僧を出家させ、祈りを捧げる
- 863年、神泉苑で御霊会が開かれる
わずか10年で平安京へ再遷都
793年の正月、桓武天皇は葛野の地を視察させました。すぐに造営が始まり、翌年の794年10月22日、ついに平安京へと都が移されます。
- 平安京は、その名の通り「平安」、すなわち平和と安らぎを願って名付けられた
- 平安京は、その後およそ1000年ものあいだ、日本の都であり続けた
- いつしか人々の記憶からも薄れ、幻の都と呼ばれるようになる
- とくに2003年の発掘では、「東院」と記された土器が見つかり、長岡宮の東院跡であることが明らかになる
流れで見る長岡京遷都
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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桓武天皇が長岡京へ遷都した3つの理由
784年11月11日、第50代天皇である桓武天皇は、都を平城京から長岡京へと遷した
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大事件発生!藤原種継暗殺事件の衝撃
785年9月23日の夜のことであった
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早良親王の悲劇と怨霊伝説の始まり
早良親王の死からまもなく、785年11月25日、桓武天皇の息子・安殿親王が皇太子に指名された
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災いは続く!次々と襲った不幸の連鎖
桓武天皇が亡くなり、安殿親王が即位して平城天皇となった
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わずか10年で平安京へ再遷都
すぐに造営が始まり、翌年の794年10月22日、ついに平安京へと都が移される