平安時代初期の大事件・薬子の変を、平城天皇と嵯峨天皇、藤原薬子・仲成ら主要人物の思惑を軸に整理します。禁断の恋と二所朝廷、還都計画、坂上田村麻呂の出兵、蔵人所設置までを通して、のちの摂関政治や院政へのつながりを解説します。
この記事のポイント
- 藤原薬子と平城天皇の禁断の恋の始まりと経緯
- 嵯峨天皇と平城上皇の二重権力構造が生んだ緊張関係
- 藤原仲成と薬子による平城京還都計画の全貌
- 嵯峨天皇の迅速な決断により事件が鎮圧された経緯
- 薬子の変が天皇と上皇の関係に与えた歴史的影響
皇位を巡る愛憎劇!薬子の変とは何だったのか
薬子の変。この名前を聞いたことがある人も多いでしょう。
- 薬子の変は、810年9月に起きた政変である
- 藤原仲成は命を奪われ、薬子は自らその生涯を閉じる
- そこには、複雑な人間関係と権力争いがある
- 変のあと、上皇が政治の前面に出ることは控えられた
平城天皇と藤原薬子!禁断の恋が政治を動かす
時は平安時代初期、800年前後のこと。794年に桓武天皇が平安京に都を移してから、まだ十数年しか経っていません。
- 806年、桓武天皇が世を去り、その長男である安殿親王が即位した
- 平城天皇には、寵愛する女性がいた
- 実は薬子は、もともと平城天皇の妻ではない
- 皇太子時代の平城天皇は、縄主の屋敷を訪れた際に薬子と出会い、その美しさに心を奪われた
嵯峨天皇の即位!二人の天皇が並び立つ異常事態
809年、嵯峨天皇が即位しました。彼は聡明で決断力のある人物として知られています。
- 兄である平城上皇が、依然として強い影響力を持っていたからである
- 当時、都は平安京にありましたが、上皇は古い都である平城京に留まることを選ぶ
- 平城上皇は、そこで独自の朝廷のような組織を作り始めた
- 平安京の嵯峨天皇と、平城京の平城上皇
平城上皇の平城京還都計画!薬子と仲成の野望
810年9月6日、平城上皇は平安京へ向けて出発しようとしました。これは、都を元の平城京に戻そうとする動きを、実際に始めたという合図でした。
- 特に仲成は、上皇を説得し続けていたと伝えられる
- 嵯峨天皇の即位により、彼らは朝廷での地位を失っていた
- 嵯峨天皇を支える藤原冬嗣は、藤原北家の出身であった
- 薬子は平城上皇の寵愛を失いたくない
嵯峨天皇の決断!薬子の変はこうして鎮圧された
兄の仲成が殺され、計画が潰えたことを知った薬子は絶望します。810年9月12日ごろ、彼女は自ら命を絶ちました。
- 嵯峨天皇は、兄である上皇を罰することはできませんでしたが、二度と政治に関与させないようにする必要があった
- 嵯峨天皇が取った措置は、平城上皇に出家を勧めることであった
- こうして、還都の動きが表に出てから、わずか1週間ほどで薬子の変は鎮圧された
- 変が短期間で収束した理由はいくつかある
薬子の変が残したもの!天皇と上皇の関係はどう変わったか
薬子の変から1200年以上が経った今、この事件が日本史に残した影響を振り返ってみましょう。
- それまで、退位した天皇の立場には、はっきりした決まりがなかった
- 上皇が政治から退くという原則は、長くは守られなかった
- 院政期の上皇たちは、一歩引いた位置にいながら、時には天皇を上回る力をふるいた
- 薬子の変により、藤原式家は大きく後退した
流れで見る薬子の変
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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皇位を巡る愛憎劇!薬子の変とは何だったのか
薬子の変
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平城天皇と藤原薬子!禁断の恋が政治を動かす
794年に桓武天皇が平安京に都を移してから、まだ十数年しか経っていない
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809年、嵯峨天皇が即位した
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810年9月6日、平城上皇は平安京へ向けて出発しようとした
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嵯峨天皇の決断!薬子の変はこうして鎮圧された
810年9月12日ごろ、彼女は自ら命を絶った