室町幕府第9代将軍・足利義尚は、わずか9歳で将軍に就任し、幕府権力の回復に情熱を注いだ若き改革者です。その誕生が応仁の乱の一因となり、父・義政や母・富子との葛藤の中で成長しました。1487年、六角高頼征伐のため自ら近江に出陣しますが、1489年、陣中で25歳の若さで病死しました。
この記事のポイント
- 義尚の誕生が応仁の乱の一因となった経緯と、将軍家の後継者問題
- わずか9歳での征夷大将軍就任と、父・義政との権力闘争
- 父や母との家庭内不和と、将軍としての自立への苦悩
- 幕府権威回復を目指した六角高頼征伐の背景と経緯
- 近江の鈎での陣中生活と、志半ばで迎えた25歳での最期
足利義尚の誕生と応仁の乱
1465年11月23日、京都で一人の男の子が産声を上げました。その名を、足利義尚といいます。
- 義政と富子のあいだには、長いこと子どもがいなかった
- 富子は、我が子を将軍にしたいと強く願いた
- これに対し、義尚の養育係となった側近たちは、義視を排除しようと動き始めた
- 細川勝元と山名宗全の対立、さらに畠山家や斯波家の家督争いが重なり、すべてが複雑にもつれ合いる
9歳で征夷大将軍に就任
応仁の乱は長期化し、京都は荒れていきました。しかし1473年、転機が訪れます。
- 1473年12月、義尚は元服の儀式に臨む
- こうして義尚は、室町幕府第9代将軍の座につく
- とはいえ、9歳の子どもに政治は行えない
- 京都の寺社や屋敷は焼け、人々の生活は苦しく、幕府の権威も地に落ちていた
父・義政、母・富子との葛藤
成長するにつれ、義尚は将軍としての自覚を持ち始めました。しかし、そこには大きな壁が立ちはだかります。
- 母の富子は後見として強い力を持ち、義尚はそれを重荷に感じていた
- 1476年、室町御所が火事で焼失した
- 父との対立は深まり、義尚は小川殿を出て、伊勢貞宗の屋敷へ移った
- 義尚はいったん小川殿に戻りますが、家庭内の不和はくすぶり続けた
将軍権力の回復を目指して
応仁の乱のあと、各地では寺社や公家の荘園を武士が勝手に奪う押領が横行していました。
- 応仁の乱では西軍に属し、戦後に幕府へ戻って守護となった
- 比叡山延暦寺などの有力寺社や、多くの荘園が存在していた
- 1487年9月、ついに事態が動く
- 1487年9月12日、義尚は決断を下する
近江への出陣と志半ばの最期
鈎の陣での生活は、1年以上も続きました。しかし戦いは、なかなか決着がつきません。
- 1488年、義尚は名を義煕と改めた
- 記録には深酒をしていたともあり、思うようにいかない戦況にストレスを抱えていたのかもしれない
- 陣中で病に倒れた義尚は、次第に衰えていいた
- 義尚の死後、叔父の義視と、その子である義材が次期将軍へと動き出する
流れで見る足利義尚「9歳将軍」誕生の裏側 日野富子と義政の決断
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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足利義尚の誕生と応仁の乱
1465年11月23日、京都で一人の男の子が産声を上げた
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9歳で征夷大将軍に就任
しかし1473年、転機が訪れる
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父・義政、母・富子との葛藤
成長するにつれ、義尚は将軍としての自覚を持ち始めた
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将軍権力の回復を目指して
応仁の乱のあと、各地では寺社や公家の荘園を武士が勝手に奪う押領が横行していた
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近江への出陣と志半ばの最期
鈎の陣での生活は、1年以上も続いた