戦国時代の転換点となった薩埵峠の戦いについて、武田信玄が甲相駿三国同盟を破棄して今川領駿河へ侵攻し、東海道の要衝で繰り広げられた二度の激戦を中心に、今川氏の没落や徳川家康の台頭など戦国の勢力図を変えた戦いの全貌を解説します。
この記事のポイント
- 薩埵峠が東海道の軍事的要衝だった理由
- 桶狭間の戦い後に今川氏が衰退し、武田信玄が駿河侵攻を決断した背景
- 第一次薩埵峠の戦いで今川軍が内通により崩壊し、敗北した経緯
- 第二次薩埵峠の戦いで武田軍と北条軍が数ヶ月対峙し、決着がつかなかった理由
- 薩埵峠の戦いが今川氏が戦国大名として力を失った理由と戦国時代後半の勢力図に与えた影響
薩埵峠とは?東海道の要衝が戦場となった理由
薩埵峠という名前を聞いたことがあるでしょうか。薩埵峠は、静岡県にある東海道の要衝で、駿河湾に近い山の中腹を通る峠です。
- 東海道が山と海に挟まれ、一気に道が細くなる
- 古くは、万葉集にも、このあたりを思わせる歌が残されている
- ここを突破されると、駿河の中心地である駿府が危険にさらされる
- 南北朝時代の観応の擾乱では、足利尊氏と直義の争いで、薩埵峠から周辺の山々にかけて戦いが起きたと伝わる
桶狭間後の今川氏と武田信玄の野望
時は1560年。東海道を揺るがす大事件、桶狭間の戦いが起こります。
- 兵数は2万5000前後といわれている
- 織田信長の奇襲によって、今川義元は討ち取られた
- 義元の死後、当主となった今川氏真は家臣をまとめきれず、有力な家臣たちは次々と離れていく
- 離反したのが、三河を支配していた松平元康、のちの徳川家康であった
第一次薩埵峠の戦い!裏切りと今川軍の崩壊
1568年12月、武田信玄は一気に駿河へ雪崩れ込みます。
- 武田軍の進軍は凄まじく、あっという間に駿河の内陸へと迫った
- さらに北条方に援軍を求め、義父の北条氏康が動き、当主の氏政が軍を率いることになった
- 峠の東側で戦いが始まり、今川軍は必死に薩埵峠を守ろうとした
- 裏切りの動きも広がり、前線はじわじわと崩れていく
第二次薩埵峠の戦い!北条軍との数ヶ月のにらみ合い
今川氏真の助けを求める声を受け、北条氏政は大軍を動かします。年が明けた1569年、北条は数万規模の軍勢で駿河へ入り、武田も薩埵峠に布陣しました。
- 武田軍と北条軍が対峙し、第二次薩埵峠の戦いが始まった
- 決定的な戦いは起きず、長期間のにらみ合いが続いた
- 信玄も氏政も、武力での決着は難しいと悟っていた
- 信玄は、北条の背後を揺らすため、関東の敵対勢力に働きかけ、北条領への攻撃を頼んだ
今川の終焉と戦国時代への影響
薩埵峠の戦い後、今川氏の運命は決まっていました。掛川城に逃れた今川氏真は、徳川家康に包囲されることになります。
- 1569年、掛川城は開城した
- 武田信玄にとって大きな成果があった
- 北条氏との同盟は完全に破綻した
- 遠江へ勢力を広げた家康は、三河と遠江を大きな土台にする
流れで見る薩埵峠の戦い
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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薩埵峠とは?東海道の要衝が戦場となった理由
薩埵峠は、静岡県にある東海道の要衝で、駿河湾に近い山の中腹を通る峠
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桶狭間後の今川氏と武田信玄の野望
時は1560年
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第一次薩埵峠の戦い!裏切りと今川軍の崩壊
1568年12月、武田信玄は一気に駿河へ雪崩れ込む
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第二次薩埵峠の戦い!北条軍との数ヶ月のにらみ合い
年が明けた1569年、北条は数万規模の軍勢で駿河へ入り、武田も薩埵峠に布陣した
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今川の終焉と戦国時代への影響
掛川城に逃れた今川氏真は、徳川家康に包囲されることになった