日本人の主食であるお米は、いつ、どこから日本に伝わったのでしょうか。紀元前10世紀頃、北部九州で始まった水田稲作が、日本の社会と文化をどのように変えたのかを、板付遺跡と菜畑遺跡の発見から紐解きます。
この記事のポイント
- 紀元前10世紀頃から北部九州で稲作が始まったこと
- 板付遺跡と菜畑遺跡が日本最古級の水田跡であること
- 初期の水田が驚くほど高度な技術を持っていたこと
- 稲作が社会に階級や争いをもたらしたこと
- 稲作が日本列島全体に広がるまでに数百年かかったこと
縄文時代の終わり、日本に稲作がやってきた
およそ1万年続いた縄文時代、人々は狩りや魚とり、木の実を集めて暮らしていました。
- そのころ、海の向こうの中国大陸や朝鮮半島では、すでに稲を育てる技術が発達していた
- そして紀元前10世紀ごろ、ついに稲作が日本列島に伝わる
- 有力な説としては、中国の山東半島や長江流域から朝鮮半島を経由し、九州北部へ到達したと考えられている
- 大勢が一度に押し寄せたわけではなく、小さな集団が技術を持って渡来した
板付遺跡と菜畑遺跡、日本最古級の水田の発見
日本で最初に稲作が行われた場所はどこだったのでしょうか。その答えを教えてくれるのが、福岡県福岡市の板付遺跡と、佐賀県唐津市の菜畑遺跡です。
- 1980年から81年に行われた発掘調査で、驚くべき発見があった
- 広さはおよそ18平方メートル
- 木製の鍬や石包丁、木材加工用に表面を磨いた石斧など、稲作に必要な道具が揃っていた
- こちらは1950年代のはじめ、地元の研究者が畑で土器を発見したことから注目された
驚くほど高度だった初期の水田技術
北部九州で始まった稲作は、想像以上に高度な技術を用いていました。初めて行ったとは思えないほど、かなり完成度の高いシステムだったのです。
- 板付遺跡や菜畑遺跡の水田には、用水路が引き込まれていた
- 井堰は、水をせき止めて水位を操るための施設である
- 木の杭や、矢板という細長い板を打ち込んで補強されている
- 土を耕すための鍬と鋤も確認されており、これらは木製だが、用途に応じて使い分けていた
稲作が変えた人々の暮らしと社会
稲作の開始は、人々の暮らしを大きく変えていきます。まず変化したのは食生活です。
- 弥生の初めごろは、まだ米づくりも始まったばかりで、狩猟や採集も重要な食料源であった
- 水田を作りやすい低地や平野部に、人々が集まるようになった
- 水路作りも、田起こしも、収穫も、みんなで協力する必要がある
- お米がたくさん獲れる土地と、そうでない土地がある
日本列島への広がりと現代へ続く影響
北部九州で始まった稲作は、すぐに全国へ広がったわけではありません。日本列島全体へ浸透するまでには、長い時間が必要でした。
- 続く紀元前7世紀ごろには、山陰地方や瀬戸内地方へ広がった
- 北部九州から西日本へ広がるまでには、およそ400年もの時間がかかったことになった
- 西では弥生文化が広がっていきましたが、東ではまだ縄文の暮らしが残っていた
- 関東では紀元前3世紀ごろに始まり、さらに中期になると東北へと広がっていいた
流れで見る水田稲作の開始
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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縄文時代の終わり、日本に稲作がやってきた
およそ1万年続いた縄文時代、人々は狩りや魚とり、木の実を集めて暮らしていた
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板付遺跡と菜畑遺跡、日本最古級の水田の発見
その答えを教えてくれるのが、福岡県福岡市の板付遺跡と、佐賀県唐津市の菜畑遺跡
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驚くほど高度だった初期の水田技術
初めて行ったとは思えないほど、かなり完成度の高いシステムだった
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稲作が変えた人々の暮らしと社会
稲作の開始は、人々の暮らしを大きく変えていく
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日本列島への広がりと現代へ続く影響
日本列島全体へ浸透するまでには、長い時間が必要であった