キリスト教伝来の歴史を、ザビエルの来日から江戸時代の禁教、そして信教の自由獲得まで時系列で解説します。なぜ戦国大名は改宗したのか、なぜ豊臣秀吉はバテレン追放令を出したのか、潜伏キリシタンはどのように信仰を守ったのか、史実に基づいてわかりやすく紐解きます。
この記事のポイント
- フランシスコ・ザビエルの来日と初期の布教活動の苦労
- キリシタン大名が誕生した3つの理由と天正遣欧少年使節
- 日本に一時的に導入されたグーテンベルク式活版印刷と、その中断の歴史
- 豊臣秀吉がバテレン追放令を出した真の理由とサン=フェリペ号事件
- 江戸幕府の徹底弾圧と、約250年にわたり信仰を守り続けた潜伏キリシタン
日本を変えた一隻の船
1549年8月15日、ザビエルは、仲間と共に船で鹿児島へ到着します。この船には、スペイン出身のイエズス会宣教師である彼と、2人の宣教師、そして日本人のヤジロウという人物が乗っていました。
- ヤジロウは鹿児島出身の日本人で、ある事情により故郷を離れ、東南アジアの港町マラッカに滞在していた
- 礼儀正しく知的好奇心が旺盛で、真理を求める心を持つ日本人なら、きっとキリスト教を理解してくれるはずだ――
- スペインとポルトガルは世界各地に進出し、貿易や領土拡大だけでなく、キリスト教を世界に広めるという使命も持っていた
- ザビエルが所属していたイエズス会は、1534年に設立されたばかりの新しい修道会であった
フランシスコ・ザビエルの挑戦!言葉の壁を越えた布教活動
1551年、ザビエルは念願の都・京都へとたどり着きます。しかし、彼の目に映ったのは、かつての面影を失った荒れた街並みでした応仁の乱の影響で権威は衰え、天皇も将軍も実権を失っています。
- 失意のうちに京都を去ったザビエルは、方針を変更
- ザビエルは、そんな義隆に会うため、インド総督の書状と珍しい献上品を携えて訪れる
- ザビエルに領内での自由な布教を許可し、荒廃していた大道寺を宣教の拠点として提供した
- ザビエルが説いたのは、唯一の神「デウス」の存在であった
キリシタン大名の誕生と南蛮文化の隆盛
ザビエルが出国した後も、イエズス会の宣教師たちは日本各地で布教を続けます。そして驚くべきことに、戦国大名の中からもキリスト教に改宗する者が次々と現れました。
- 1578年、大友宗麟は洗礼を受け、ドン・フランシスコという洗礼名を得た
- 肥前の大村純忠も、1563年頃に洗礼を受け、ドン・バルトロメウと名乗った
- その理由のひとつが、南蛮貿易
- すべての人間はデウスの前に平等であるという思想は、身分制度が厳しかった当時の日本では革新的であった
豊臣秀吉の方針転換!バテレン追放令と地政学的恐怖
1587年、九州平定を終えた豊臣秀吉は、突然「バテレン追放令」を発布します。バテレンとは、ポルトガル語で司祭を意味する言葉。
- 当初からキリスト教を敵視していたわけではない
- 日本の領土が外国の宗教団体の支配下に置かれることは、統一政権を目指す秀吉にとって容認できない事態であった
- バテレン追放令は、宣教師の退去を命じつつも、貿易は継続するという内容であった
- 1596年、土佐沖でスペイン船サン=フェリペ号が座礁した
江戸幕府の徹底弾圧!キリシタン版の中断と潜伏キリシタン
秀吉の死後、家康は貿易を重視し、キリスト教にも一定の理解を示していました。しかし、大坂の陣を前に、九州のキリシタン勢力が豊臣方に加わることを懸念します。
- 1612年に天領でキリスト教を禁止し、1614年には宣教師の追放と教会の破壊を命じる全国的な禁教令を発布する
- この1614年の大追放令は、日本の文化史にも大きな影響をもたらする
- 1622年には、長崎で55人のキリシタンが処刑される、元和の大殉教と呼ばれる事件も発生する
- 1635年頃から始まった鎖国政策によって外国との接触を制限し、1639年にはポルトガル船の来航も禁止される
流れで見るキリスト教伝来
動画全体の流れを、章立てに沿ってざっくり整理しています。
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日本を変えた一隻の船
1549年8月15日、ザビエルは、仲間と共に船で鹿児島へ到着する
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フランシスコ・ザビエルの挑戦!言葉の壁を越えた布教活動
1551年、ザビエルは念願の都・京都へとたどり着く
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キリシタン大名の誕生と南蛮文化の隆盛
ザビエルが出国した後も、イエズス会の宣教師たちは日本各地で布教を続ける
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豊臣秀吉の方針転換!バテレン追放令と地政学的恐怖
1587年、九州平定を終えた豊臣秀吉は、突然「バテレン追放令」を発布する
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江戸幕府の徹底弾圧!キリシタン版の中断と潜伏キリシタン
秀吉の死後、家康は貿易を重視し、キリスト教にも一定の理解を示していた